芝翫の鱶七
九月の「妹背山」の三段目に続いて今月は四段目と五段目である。
序幕がいきなり「道行恋苧環」。昼の十二時に竹本の葵太夫、慎治以下の大合唱で「岩戸隠れし神さんは、だれと寝寝して常闇の」とくるといささか照れる。観客のことを考えたらば、なぜ杉酒屋から開けなかったのかと思ってしまう。
その道行。菊之助のお三輪、梅枝の求女、米吉の橘姫と花形三人を揃えながら、これが意外に冴えない。一つ一つの振りでなにを表現しようとしているのか、観客になにを伝えようとしているかがよく分からない。
菊之助のお三輪はアッサリしていて情が薄い。形通りというに止まる。
梅枝の求女は、この人が立役が向かないことを示している。御承知の通り女形には二つのタイプがある。一つは歌右衛門タイプ。女形専門で立役には向かない人。もう一つは梅幸タイプ。女形と同時に立役の両方が出来る人。そのうち梅枝は歌右衛門タイプで、自他ともにその資質を大事にするのが本人のためであり、将来の歌舞伎のためでもある。未来の立女形候補だからである。
米吉の橘姫は、これ程のはまり役はないと思うのに、どういうわけか芝居も踊りも観客の目に沁みず。振付の指示通り動いているというだけで、暗然とした。この三人の完敗で将来はむろん、今日一日これからの舞台がどうなるのかという思いであった。
次が「御殿」。まず「鱶七上使」は、芝翫の鱶七がいい。鱶七がよかった十二代目團十郎、吉右衛門、この二人亡き後の、当代の鱶七である。一つ一つのきまりの形もいいが、この人ならばもう一杯味わいがほしいと思うのは、望蜀だろうか。ここでは菊の花に毒酒を懸けて欄干に長柄の銚子を突いた見得が、豪快かつ大きくて一番の出来である。
歌六の蘇我入鹿は、「百司百官」や「昔」の大音声の高音部が苦しくて聞き苦しい。そのため凄味、怪異味に欠ける。公家荒れの藍隈も心持薄く見えて生彩がない。
彦三郎の宮越玄蕃、萬太郎の荒巻弥籐次、菊市郎以下の立役の官女は、この場の滑稽味が薄い。
「姫戻り」になる。梅枝の求女、米吉の橘姫の評は「道行」と変わらず。ここで下手の求女、上手の橘姫が入れ替わるきっかけは、官女が入って二人きりになった時か、橘姫が「あなたは藤原淡海さま」求女が「アッ、これ」の時か、二通りの型があるが、私は後者が正しいと思う。その理由は、ここではじめて求女が正体を現すからであり、そうなれば逆臣蘇我入鹿のそれも妹の橘姫は、天皇の側近藤原鎌足の正嫡淡海の方が席次が上に逆転するからである。
それはとにかく、どっちの型を取るにしても、二人の入れ替り方がなんの気もなく無造作過ぎる。気がないのではないが、なにも考えていない様に見える。芝居が浅いのである。女形の官女は梅之助以下。
お三輪の出になる。菊之助のお三輪は期待して見に行ったが、それ程のこともなかった。まず最初の難所、「お留守かえ」の裏向きのきまりもキッパリしているというだけ。ここに絡む時蔵の豆腐買いは、本来立役のものであり、九月の定高の大当りの後に豆腐買いとは、いくら付き合いといえ気の毒。当然「そな子、あばよ」も映えず、第一お三輪が少しも引き立たない。
菊之助のお三輪は、見たところがふっくらした美しき、柔らかさが祖父梅幸生き写し。いいお三輪だと思っているうちに段々怪しくなってくる。顔は似ているが、していることは梅幸とは違っている。たとえば「竹雀」でいじめの官女(この菊市郎以下の官女が仕事はしっかりしているが芸の上の艶、粘りがないので、いじめが生きずお三輪が引き立たない)に突っ込まれている時に、御殿の奥にいるだろう求女——実際はいないのだが——の方に気を取られる気配が薄い。奥への集中力がない。
ここは梅幸が六代目菊五郎写しだという巧いところであった。その巧さは、同じくお三輪を当り芸にしていた歌右衛門と対照的。歌右衛門が古典的かつ様式的な型(たとえば竹雀の振りごとをきちんと踊る型)を丁寧に深めて行ったのに対して、梅幸は六代目の近代的かつ心理主義的な演技を深めて行き成功した。たとえばここの梅幸のお三輪は奥へ集中して行く。そこでお三輪という少女のいじらしさ、哀歓が溢れて例えようがなかった。この少女の心理は一見お三輪の「疑着の相」という何万人に一人という奇蹟的な現象と不釣り合いの様に見えるが、実はそうではなかった。そういう少女だからこそ「疑着の相」は突然恐ろしい力で、近代的心理主義で描かれた少女を完膚なきまでに叩き潰したのである。この少女に思い掛けない「疑着の相」という恐ろしい神話が突然現れるから面白い。この二人の名女形のお三輪評は三宅周太郎の批評(「歌右衛門襲名興行」『歌舞伎ノート』所収)が名評。まるで違うものだったのである。菊之助は奥に気を取られるどころか、時にボーッとして放心した様になるのがなにを表現しているのか分からなかった。と思っているうちに、菊之助のお三輪は島台も子太郎もカット、いきなり官女に担がれて花道七三へ行ってしまった。これは玉三郎が考えた型である。それは玉三郎だからいいのだが、これは菊之助が本来持っている芸質には合わない。菊之助は顔が似ている様に芸質は梅幸型に合っている。歌舞伎の「型」は、それが型としてよければだれにでも合うというものではない。歌舞伎の「型」は、役者個人の身体、その生理に密着しているものであって、そこが現代劇の「演出」とは違う。役者の芸質と深く関わっているのである。
七三へ行った菊之助は、「疑着の相」を顕わすのには滑走が足りない。滑走路がなければ飛行機は飛べない。玉三郎だと女形一筋そこまでタップリ芝居をしているからそれでもいい。しかし菊之助は最近女形よりも他の役が多い上に、梅幸的な心理主義的な芸質だからこの型では飛べないのである。それ以後の仕事でも哀れ気が薄くなる。「横笛堂の因縁」の落ち入りのよさも淡彩。再演に期待したい。
芝翫の鱶七実は金輪五郎は後半の物語もいい。豪快さ、錦絵の美しさ、いうまでもなく、しかしこれで旨味の艶が出ればなおいい。
「御殿」が終わると、戸部銀作の台本で、橘姫が十握の名剣を奪い返す奥殿、続いて入鹿誅伐の奥庭と続いているが、ただ筋を通したというだけ。
歌六の入鹿、米吉の橘姫、梅枝の求女。大詰には菊五郎休演につき時蔵の藤原鎌足、芝翫の金輪五郎、菊之助二役の采女の局、梅枝の藤原淡海、権十郎の大判事清澄、彦三郎の宮越玄蕃、萬太郎の荒巻弥藤次と一座総出で幕になる。
『渡辺保の歌舞伎劇評』