玉三郎演出の「天守物語」
「天守物語」を書いた泉鏡花は、恋を言葉だけで語ろうとした。しかし恋は本来顔の表情や行動に現われこそすれ、言葉で直接語られることはあまりないだろう。それを鏡花は言葉にしようとした。その作者の苦心が、美しい宝石の様な煌めきの言葉を作った。
今度の玉三郎演出(玉三郎がこの作品を演出したのは何度目かであるが、今度ほどその特色が明らかになったことはない)の「天守物語」の後半で、七之助の富姫と虎之介の姫川図書之助のせりふのやり取りを聞いていると、二人の恋が言葉によって直接語られるのが分かって、作者の意図が鮮明になった。
しかし同時にそのせりふが舞台で身体的に生きられたかといえば、それは今度の舞台よりもかつての玉三郎自身が富姫を演じ、海老蔵(現團十郎)が図書之助を演じた時であった。あの時には玉三郎も海老蔵も、二人の吐く息、吸う息が炎の様な熱さで、その熱さのなかに二人の恋が生きていた。それに比べれば、今度は恋の言葉が客観的に分析されて、その構造が顕わになった。言葉の構造、そして作家の意図からいえば、今度ほど鮮明になったことはこれまでなかった。それは恋が生きられたからではなくて客観的に描かれたからである。その分演出家玉三郎の視点がこの舞台には強く生きている。そのために後半がいささかテンポが遅くなり、平面的になったことも否定できない。
玉三郎は、今度は富姫から亀姫になった。さすがに七之助の富姫に対して、目立つ様なこともせずにいながら、妹分になっているのは大したものである。七之助と二人が肩を寄せ合って立つと姉妹の関係がハッキリするのもそのためであり、七之助が玉三郎演出によって立派な富姫になったからでもある。これからは七之助の富姫の時代になるのだろう。二十一世紀の「天守物語」である。
七之助の富姫がなかでもいいのは、亀姫の駕籠が宙を飛んで行くのを見送って、舞台下手から上手へ立ちながら目で宙を追うところ。なんともいえぬ風情で、歌舞伎座の広い舞台いっぱいに、この女の気品、孤独な寂寥が漂い、城の天守閣高く空中の別世界が浮かび上がった。
世界が浮かぶといえば、勘九郎の近江之丞桃六も幕切れ、上手の図書之助富姫二人と離れて下手に立っての芝居、これが地上の現実、天国の楽園と二つの世界とはまた次元の違う別世界を描いていい。二役舌長の姥は思ったほどではなかった。やはりこの役は桃六とは違って年功がいるのだろう。
朱の盤坊は獅童だが、これは意外に平凡。野放図なところがなかった。片岡亀蔵の小田原修理。
玉三郎の亀姫、七之助の富姫を含めて、吉弥の薄、腰元たち、女の童まで、今度の「天守物語」は後半の重さに比べて、前半がこれまでになく軽快、美しく、透明で、はなやかであった。そのはなやかさは白露を餌に秋草を釣るという風情によく出ている。
第三部は、この「天守物語」の前に松緑、勘九郎の舞踊「猩々」。短い踊りだが、この二人の対照的な芸風が面白い。松緑には柔らかく優美に見えてキッチリと堅実な手応えがあり、勘九郎は描線のタッチが太く見えて柔らかく、二人の対照が鮮やか。見ていて私は二人の祖父同士——十七代目勘三郎と二代目松緑の「猩々」を思い出した。あの時は「猩々」から引き抜いて「三社祭」だったが、松緑、勘九郎の「三社祭」も見たいと思った。
第三部から前へ戻って第一部は、東京初役の巳之助の「岡崎の猫」で開く。昼前から「岡崎の猫」を見るのは違和感があったが、かつての二代目猿翁(当時猿之助)の化け猫が面白かったので期待して行ったが、巳之助の化け猫は、最初の出に二重上手の障子屋体からスルッと出て来た身のこなし、その軽さ、猫らしさに思わず息を呑んだが、その後は凄味を強調し過ぎてかえって凄味を欠いている。もっとも猿翁も凄味はなかったから是非がないか。それにこの場が面白かったのは猿十郎のおくらという傑作があったからで、そのすばしこさ、軽さは素晴らしかった。今回のやゑ亮のおくらは若い娘にしたせいか、とかくイメージが散漫になっている。猿翁の時は幕切れに猫が十二単で宙乗りになったが、今度は次の狂言に獅童の狐の宙乗りのためにカットになっている。橋之助の由井民部之助、新悟の女房お袖。
次が獅童の「超歌舞伎」。なにが「超」か分からないが、獅童の若い人へのアッピールと努力、熱演、映像の面白さはいいが、肝腎のなかみが詰まらない。最初に白狐の尊(獅童)と朱雀の尊(勘九郎)が青竜の精(國矢)の謀反で滅ぼされ、千年後に佐藤忠信に生まれ変わって青竜の精を滅ぼすというだけの話。「義経千本桜」の鳥居前の菱皮の鬘、二本隈、四天の着付けに仁王襷の拵え、ガラリと変わっていつもの道行の紺地の着付け姿を見せるだけで、人間のドラマも感動も魅力もない。これではいくら歌舞伎の様式を取り入れても所詮はうわべだけに終わってしまう。歌舞伎で最も大切なのは隈取でも宙乗りでもない。役者であり、その役者の芸であり、芝居のしどころであり、魅力である。そこに特殊な造形があってこそ歌舞伎であって、それを忘れてはならないだろうと思う。
続いて第二部は、はじめが戸川幸夫の小説を平岩弓枝が舞踊劇に仕立てた「爪王」。短い踊りだが、心を洗われる清々しい逸品。
七之助の女姿の鷹がいい出来である。勘九郎の狐は男仕立てで、悪の凄味を見せずに鷹と闘う。この男女、善悪をそれと見せずに勝負させたところがいい。彦三郎の鷹匠が空に鷹を放す瞬間のボーズで雪の冬空の清々しさを見せて巧い。
長唄は喜三郎、巳太郎ほか。
今月は化け猫、狐、そして鷹と狐、この後が猩々と天守の化物たちと、動物と妖怪ばかりの中でたった一本人間を扱うドラマがある。竹柴潤一脚本、西森英行演出の義士外伝「俵星玄蕃」である。先の「荒川十太夫」に続く松緑の講談劇第二作である。私は前作よりも面白かった。
赤穂義士贔屓の槍の名手俵星玄蕃(松緑)と蕎麦屋に化けている義士の一人杉野十平次(坂東亀蔵)との友情物語。
わずか一時間二十分の間に蕎麦屋と玄蕃の道場の、行って来いとはいえ六場も場面が変わるのが散漫だが、二人のハラの探り合いは面白い。これで演出にも演技にももう一工夫あれば、松緑近来の当たり芸になったのに惜しい。玄蕃はたしかに此奴は義士の一人に違いないと思い、これを探り、疑いを抱く玄蕃。一方玄蕃の人柄に惹かれながらも身分を隠して付き合う十平次。そういう状況の中で十平次に人間的な友情を感じてしまう玄蕃の複雑な気持ちが、芝居としてもう一つ鮮明に立体的に組まれればよかった。
玄蕃が吉良家の付け人に雇われそうになって、急に義士二人が贋の使者になって玄蕃を仕官させまいとするのが大石内蔵助の策略だというのも随分浅はかだが、二人が十平次とぶつかって驚くというのもやっつけである。当然十平次は知っているべきだろう。講談は寄席の高座の一人芸。語りの面白さで聞かせる芸であり、それを芝居にするためには、立体的にリアルに組み立てなければ通用しない。
大詰の大薩摩、火の番小屋の屋体崩しも荒唐無稽だし、その後の玄蕃の立ち廻りも長すぎて折角の芝居の余韻を崩している。こういうところにももう一工夫欲しい。権十郎の吉田忠左衛門、青虎の玄蕃の門弟がいい。左近の大石主税。
『渡辺保の歌舞伎劇評』