天守夫人富姫の恋
「鷹には鷹の世界がある」
泉鏡花の「天守物語」の後半、玉三郎の富姫が團子の姫川図書之助にいうせりふである。図書之助は、姫路城の城主武田播磨守の家臣。主人播磨守秘蔵の白鷹の鷹匠である。その鷹を富姫は自分の所へ遊びに来た猪苗代の亀姫の土産に攫った。図書之助は、その鷹が行方不明になった責任を問われて天守閣へその行方を捜しに来る。
もとより図書之助が生きるのは人間の世界の封建制、忠義一途の階級社会であり、「人間には人間の世界がある」。しかし富姫は人間ではなく精霊、ましてや鷹は天空を飛ぶ自然のもので、そこには独自の世界がある。鷹であれ精霊であれ人間であれ、自由に成るためにはその世界の独自性を超えなければならず、超えるには時にその世界を捨てなければならない。鷹は鷹匠の手にある時は、自由ではない。もし鷹が自由に成ろうとすれば「鷹の世界」に生きなければならない。泉鏡花はそのことを書いた。したがってその言葉は富姫と図書之助、二人の男女の関係を変え世界を変えて、その恋に至り、二人は私たちの目の前で見る見るうちに恋に落ち、成長して変身して行く。
私がこの一節を取り上げるのは、今度の「天守物語」の舞台で玉三郎の富姫が團子初役の図書之助を導いてその新しい可能性を開いたからである。今度の「天守物語」の白眉の一つはここにある。図書之助の人間像が新しく刻まれ、團子はその新しい図書之助になると同時に俳優としても大きく変身した。図書之助はそのせりふによって恋に目覚めて行く。たとえば何度目かに富姫のもとへ戻って来た時、せりふではあなたの許しを請うために戻って来たといいながら、実はその言葉とは裏腹に富姫に一目逢いたい、逢って死にたいという本心がムクムクと湧き上がって来るのが目の当たりに見える。そう見せることによって図書之助が変身し、同時にその図書之助を演じる役者としての團子自身が開花したのである。
私は、九月に京都芸術劇場の春秋会で團子が踊った「鏡獅子」のビデオをネットで見た。彼にはとかく誰もが形をキレイに見せようとするところで、そういう意識が全くなく、ひたすら振りの心に忠実に踊ろうとして、それが結果としていい形になって行くのを見て驚いた。ネットには藤間勘十郎が團子に手を取って教えているシーンがあって、それを見て私はなるほどと思った。勘十郎は形を教えているのではなく振りの意味を教えていたからである。そうすると自然に結果として形がよくなる。当人の努力もむろんあるが、それとは別に当人が知らず知らずの内に開花して行く。それを導いたのは「鏡獅子」では九代目團十郎の振りであり、振付の藤間勘十郎であったが、それと同じことが図書之助でも起こっている。「天守物語」では泉鏡花のせりふであり、富姫の玉三郎であった。
玉三郎の富姫は再三の当たり芸、今更いうまでもないが、何回かの舞台で大きく飛躍したのは、現團十郎の図書之助の時がはじめであった。この時はじめて「天守物語」は一編の恋物語として舞台に実質的に成立した。それまでは単なる夢物語、幻想的なファンタジーに過ぎなかったのである。それ以来大きく飛躍した玉三郎の富姫は、今度は更に変化した。さすがに以前の團十郎を引き上げる緊迫した力は無くなったが、今度は團子に対して子の手を引く母親の如く、図書之助を包み込む鷹揚な大きさと寛容が漲っている。その言外の美いわんかたない。
もっとも玉三郎として圧巻なのは、この二人の芝居よりも、それに入る前の、すなわち猪苗代へ帰る亀姫一行の立つところであった。舞台下手に切り出しの駕籠が下りて来る。下手から朦々たるスモークの白い煙り。その白煙の中へ亀姫はじめ朱の盤坊、舌長姥、腰元たちが消えて行く。それを見送って右手に持った扇子を口に当てた富姫が立って、やおら上手の空を見る。駕籠が上手の中空から下手へと旋回して行くのだろう。玉三郎が上手から下手へズーッと視線を動かして行く。これだけで歌舞伎座の広い空間に、中空遥かに去っていく行列が浮かぶ。その景色もさることながら、遥か遠くの空を望んでそこに立つ、その景色を反映した女形の美しさ、存在感、豪奢で上品な打掛の好み、派手で高とで絢爛たる色気が辺りに満ち満ちて、歌舞伎座の広い空間、満員の観客を圧倒して圧巻であった。今度の富姫第一の見どころである。
今度の玉三郎演出は前回にも増して善尽くし美尽くしている。ここに限らずどこを取っても細密繊細、実に美的に行き届いている。たとえばその一例。幕開きの秋草を釣っている侍女たちが亀姫一行の到着時には、全員黒地の衣裳に着替える贅沢さ。そうすると舞台の景色はまた変わる。一事が万事。かくの如くだからどこを斬っても美が零れる。ただ一つ欠点なのは、その結果細部が肥大して芝居のテンポが遅くなったことである。細部に神が宿ることも事実だが、細部が肥大すると全体の構図が崩れることもまた事実である。
玉三郎の富姫は、前半の軽いせりふ、ことに七之助の亀姫と戯れている辺りの軽口が絶品である。
七之助の亀姫は、先頃の富姫の体験が生きてか、ある時は二人富姫とでもいうべき美しさ、大きさで目を奪い、またある時は富姫の可愛がる妹になって、変化自在の余裕でいい。
男女蔵の朱の盤坊は、時代に武張るところと、世話に砕けて道化て見せるところの差がはっきりした方がいい。
門之助の舌長姥も穏やかで真面目過ぎて、グロテスクさに欠ける。ことに舌で武田右衛門之介の首を舐めるところが丁寧過ぎる。仕掛け物は一瞬にアッと思わせてやめる方が驚きの余韻が濃くなる。そこに凄味も生まれるのだろう。
歌昇の小田原修理、玉雪の山隅九平は、ともに頑迷固陋さ、敵役の憎さが足りない。
周囲の役でいいのは吉弥の局薄。ニンに嵌っている。
獅童の近江之丞桃六は、していることはいいのだが、終始立ったままでいるのは舞台面としても締まらないし、獅子の目を彫る形にもならない。その上上手の富姫と図書之助と絵になり過ぎる。全然二人と関係なくて、しかも関係しているというつかず離れずの関係が出来ていない。しかしこれは獅童の責任ではなく演出の問題だろう。
歌女之丞、京妙、芝のぶ以下の侍女たちが手揃いだし、照明、衣裳ともに揃って美しい。
第三部はこの「天守物語」の前に萩原雪夫作の舞踊「舞鶴雪月花」。勘九郎の桜の精、松虫、雪達磨の三役に勘九郎の次男長三郎の松虫の子である。上の巻桜の精は、第二部の最後に七之助の踊る舞踊「鷺娘」と顔はそっくりだが芸は違って立役の踊る娘形になっていてこれはこれで別趣の面白さである。正面桜の大樹の陰を通り抜けた瞬間に引き抜いて衣裳が変わるのはあざやかを極めるが、実はもう一息遅い方が観客の呼吸に合うだろう。
中の巻の松虫は、花道スッポンにせり上がったところが、異形に雰囲気を感じさせる。ここらがこの人の祖父とも父とも違うニンだろう。この人には祖父も父も出来なかった「勧進帳」の弁慶が出来るニンなのである。と思って見ているうちに一転して下の巻雪達磨になって、祖父十七代目生き写しの踊りに胸が熱くなった。あゝ十七代目がそこに居ると思った。
長唄は杵屋喜三郎、巳太郎ほか。
以上が第三部で、第二部は松緑初役の道玄、梅吉に勘九郎の松蔵で「加賀鳶」と七之助の「鷺娘」の二本立て。
松緑の道玄を期待して行ったが、さすがに手に余っている。順を追って行こう。
序幕木戸前勢揃い。
松緑の梅吉は、描線がキッパリしていて、この場だけの梅吉ならば一通りの出来である。勘九郎の松蔵は、梅吉の「年かさ」の兄貴分には見えないのは是非もないが、していることはスッキリしていていい。たとえば初代吉右衛門の松蔵の、花道七三で法被を肩に担ぎ変えるだけで、客席に雰囲気が染み透った世話物の面白さ、味わいが出るのはこれから先のことだろう。
獅童の巳之助以下、左近、彦三郎、坂東亀蔵から男女蔵の雷五郎次まで加賀鳶の御一行の中には、せりふが黙阿弥にも七五調にさえなっていない人がいるのが困る。ましてせりふの面白さで観客を陶然とさせる人が少ないのは寂しいし、味がないのも困るが、それ以上にこの役が他の場面で何をしているかを知らないために生活感がないのに困惑した。短い一幕なのに少しも芝居らしくいい幕にならなかった。
二幕目御茶ノ水の殺し。
ここに松緑二役の按摩道玄が登場する。顔の表情に愛嬌を作ろうとしている気持ちは分かるが、この拵えた顔付きがいかにも目立って、図太い凄味に欠ける。この場には短いのにしどころが一ぱいある。それをしないのは行儀がいい反面物足りなくもある。凄味だけでももう少し突っ込んだ方がいいと思うがどうだろうか。太次右衛門の懐中の金に気が付くところ、目を開くところ、一刀浴びせて花道七三に行って中腰で向こうの闇を透かして伺うところ。いずれもそうである。
幕切れに出る勘九郎の松蔵は、「あゝ、按摩か」と闇を透かすところに味がないのは初役ゆえ是非もないか。幕切れに拾った煙草入れを翳しながら背中向きになってしまうのは一つの行き方だが、あまりに真ッ当過ぎて余韻がない。手に拾った煙草入れが観客の印象に残り難い。
太次右衛門は咲十郎。
三幕目盲長屋。松緑の道玄は、していることは問題ないが、門口の立ち聞きから、お朝をなぶって強請のネタにするまで、芝居の運びに起伏がなく、イキの差し引きが目立たないために面白味がないのが残念。しかしこの役は将来はこの人のものに違いないから、もう一度道玄という人間と真ッ向う勝負をして貰いたいと思う。
雀右衛門の女按摩おさすりお兼は、亡父四代目雀右衛門もやった役の上、今度は二度目だが、まだ花のある女形にこの役は気の毒としかいいようがない。芝のぶの道玄女房おせつも同様。こういう配役が芝居の底を浅くしてつまらなくする。鶴松のお朝、緑の口入れ婆。
第二場伊勢屋店先。松緑の道玄は、強請の前後はいいとして、松蔵がお朝の書置きの筆跡鑑定をして偽筆と決めつけた後にすぐ「もとより噺の根無し草」という有名なせりふになる。しかし「黙阿弥全集」収録の原文では松蔵のせりふの後にお兼が割って入り偽筆かどうか知るものかという松蔵とのやり取りがある。それを黙って聞いていた道玄が思い入れをしてこのせりふに掛かる。最近の上演台本ではさらに改変されていてよく筋が通らない。今度の松緑はその最近のやり方を取らなかったのは正しいが、それでも原作とも違っている。原作の思い入れがあって到頭「もとより」の白状になるのには、そこに道玄の芝居がなければならないから松緑の今度のやり方では簡単すぎるし、道玄の図太い性格が崩れてしまう。せっかく初役で挑戦するのだから原作に帰って欲しかった。それに強請のせりふ廻し、煙管を落としての手付き、芝居の運びも手一杯で余裕がない。仕方がないが、再演に期待したい。
雀右衛門のお兼は一通り。権十郎の伊勢屋与兵衛は若づくり過ぎる。その方が道玄のお朝を使っての言いがかりがそれらしく見えるだろうと思ったのなら間違いである。どう見ても不釣り合いと見えてこそ「お半長右衛門」の喩も生きるし、道玄の言いがかりの強引さも目立って強請らしく見えるのだろう。
ここでいいのは勘九郎の松蔵。きっぱりして、突っ込みの鋭さにも胸がすく。今度の「加賀鳶」一の当たり。橘太郎の番頭佐五兵衛が手馴れていい。欲には丁稚に遣り込められる憎たらしさがあれば、五十両で示談にしようとした間違いが引き立って危機感が出るだろう。
大詰、もとの盲長屋。松緑の道玄は、この場は大過なし。雀右衛門のお兼は、おせつの有様を見て、自分もいつかはあゝなるんだねと道玄に嫌味半分釘を刺すところがカットなのは、色気がない。こういうところでこの女の人生が色濃く出る。芝のぶのおせつは哀れ気が足りず、荒五郎の大家は生硬で情が届かず。
第二場の赤門前の捕り物は、いつもの型通りながら少し長く感じたのは、立ち廻りに緩急の変化がないからである。
「加賀鳶」の後に七之助の舞踊「鷺娘」。七之助は最初の白無垢で綿帽子の下で顔を上げ過ぎる。あゝ終始天を仰いでいては「しょんぼり」という風情が出ない。七之助は、この白無垢を引き抜いて赤地の振り袖になったところが、闊達可憐でこの幕一番の出来。どこか寂しく冷たいこの人の芸風には、この赤地の派手さが丁度釣り合ってはなやかに見えるためだろう。「七之助論」のデータである。
一度下手へ入っての「須磨の浦辺で潮汲むよりも」の踊り地は、踊りはいいのだが姿が悪い。下に着込んだ衣裳が切り立てのせいかゴワゴワして姿の邪魔になる。傘の段があって、さらに白地に肩に血のある衣裳に引き抜いてからは、この人には玉三郎流の現代風の感覚が合わず、柳の枝を持った在来の責めの方が合う様だ。
長唄は芳村辰三郎、杵屋五吉郎ほか。
『渡辺保の歌舞伎劇評』