梅枝の葛の葉
雲一つなく晴れ渡った正月の昼下がり、新宿副都心の一隅で私は白日夢を見るような体験をした。梅枝初役の葛の葉である。
まず機屋。お納戸風の石持ちの世話女房姿が艶やかであった。童子を寝かし付けてもう一仕事しようかと立ち上がって機屋へ入ろうとするその立ち姿の、古風な美しさ。いい女房振りであった。
保名が帰って来て、信田庄司夫妻が訪ねて来ているという話を聞く。フッと表情が陰って動きが止まる辺りも、巧いものであった。
しかしここまでは、よく出来たという程度である。一度幕が閉まって場面が奥座敷になる。童子が寝ているところへ暖簾口から葛の葉が出る。お定まりの黒繻子の襟、狐色の着付けもいつもと変わりがない。しかしこれからが驚くべき舞台であった。していることは別に変ったことはないのに、梅枝の細りした姿の廻りに、不思議に深々たる静寂が漂う。葛の葉が子別れの悲しさを訴えているのにシーンとした静けさが辺りを包む。そこにはただの母親ではなく、一人の人間でさえなく、女房姿をした女——狐の神話が現れた。女が狐に化けたのか、狐が女に化けたのか、とにかく人間とは思えぬ気配の静寂さであり、その静寂さは深い闇に繋がっている。女はひたすら子別れの悲しみを訴えているのに、ちっとも熱くない。ゾッとするような冷たさが漂う。
今までこんな葛の葉を見たことがなかった。私がはじめてこの芝居を見たのは、奇しくもいま私の目の前で葛の葉を演じている梅枝の曾祖父三代目時蔵の葛の葉であった。それから大勢の女形の葛の葉を見て来た。しかしこんな葛の葉を見るのははじめてであった。それはさながら白日夢の如く、奇蹟としかいいようがなかった。しかもその野生の悲劇がどんどん広がって行って、今まで御涙頂戴のメロドラマが、今まで見たこともない世界へと私を連れて行った。
舞台が廻っていつもの障子の曲書きになる。
恋しくば訪ね来てみよ和泉なる
信田の森の恨み葛の葉
この和歌がいつもと違って生きて舞台に広がって行く。そしてついに一つの世界を創った。その世界は「母の故郷」であり、人間の原点への回帰であった。メロドラマは一変して、壮大な人間のドラマになった。
どんな人間にも、イヤ人間に限らず生きとし生けるもの狐に限らずどんな動物にも母がいるだろうし、故郷があるだろう。「母の故郷」は生き物の原点なのである。そういう人間を超え、性別を超えて信田の森に母の原野が広がる。ここに広がる葛の葉の悲劇は、人間か狐かを超えて生き物の原点なのである。その世界を見て私はただ茫然とする他なかった。そこには私が今まで見たことがなかった、それでいてかつて見たに違いないふるさとが溢れていたからである。
私が見た多くの名女形たちの葛の葉とは全く違うドラマがここにはあった。これは夢であろうか。夢だとすれば、若い梅枝が歴代の名女形を超えてどうしてこんな世界に到達することが出来たのか。その理由は二つある。
一つは、梅枝の若い新鮮な感性である。それが思いがけないライトを古典に与えたのである。古典は新しい現代的な感性と出会って蘇る。もう一つは梅枝が葛の葉の型にひたすら無心に没入して、心理だの人間だのという近代的な理屈に拘らず、そういうものから解放されていたからである。無心にただひたすら古人の型に従った。それに応えて古人の型が息を吹き返したのである。梅枝が古人の型を巧く消化したとはいえないかも知れない。たとえ拙くとも彼はそれを疑わなかったことだけは事実であり、それが古人の精神を掘り起こしたのである。
道具が変わって道行になる。遠くに信田の森を見せて秋草の咲き誇る草原。
ここに哀れを止めしは安倍の童子の母上なり
この作品よりも前から歌い継がれた一節が、「母の故郷」へ急ぐ葛の葉の余韻になる。ただこの竹本の道行はあった方がよかったが、途中で二人の奴が絡むのがよくない。「差し駕籠」を知らない観客には何が何だか分からないだろうし、見た目にも白日夢の美しさとは違和感があるからである。
梅枝の二役葛の葉姫は、見る前はこっちの方が本役だろうと思ったが、意外にも平凡で色気が薄い。ここらが梅枝論のポイントかも知れない。
時蔵の保名はいかにもそれらしい柔らかさでいい。権十郎の信田庄司、萬次郎の女房はともに手堅い。
この「葛の葉」の前に菊之助の「石切梶原」、後に菊五郎時蔵ほか一座総出の「勢獅子」がある。
菊之助初役の梶原は、舅吉右衛門の当たり芸をよく学んで、ここまで研究したのかと思わせる勉強振り。似れば似るほど、学べば学ぶほど吉右衛門が思い出されて、そうなるとつい吉右衛門はこうではなかったと思ってしまう皮肉な結果になった。たとえば俣野が二つ胴を斬ろうとして立ち上がるのを留めての竹「面色筋を荒らぐれば」の件り。初代はここのきまりが巧かったが、二代目はさらに工夫して二つ胴を斬ると見せて助ける工夫がついてのアッという思い入れが丁寧でよかった。その思い入れが丁寧だとその後が生きる。菊之助もそれをやっているがアッという思い入れから気を変えて俣野を留めるイキが十分ではない。もう一工夫である。
これ程努力している当人には気の毒だが、やむを得ない。私の正直な感想である。もっとも今日一月五日は初日、この役は「千本桜」の知盛や「盛綱陣屋」と違って将来この人のものになるだろう。その証拠に梶原の反平家の性根がよく表れているのがいい。細部でいえば、後半石の手水鉢を斬るところ、刀を立てて持ち舞台やや下手から上手の手水鉢をキッと見込んだ姿、画龍点晴。ここは吉右衛門にもなかったいいところ。キリッとして梶原らしい。
それにしても気の毒なのはこの劇場に花道のないこと。脇舞台に客席に向かって直角に揚幕がついていて、石の手摺があるところを出て来て本舞台下手へ来てせりふになる中途半端さ。本舞台下手で右足を引いて「しからば御免」になる不自由さ。この努力を考えれば、花道くらい作ってやるべきだと思う。
彦三郎の大庭は菊之助の梶原との釣り合いが取れている。萬太郎の俣野は、せりふ廻しといい、体の動きのイキといい、バリバリとしていい。橘三郎の六郎太夫は義太夫味が薄い。梅枝の梢は葛の葉とは違って平凡。片岡亀蔵の呑助が安定している。この一段は葵太夫、淳一郎がよく支えている。
「勢獅子」は、菊之助と彦三郎の二人が、曽我物語とボウフラ踊りを見せて堪能させる。
時蔵の芸者がさすがに舞台を攫う出来。
菊五郎の頭が幕切れ近く顔を見せると舞台が一度に締まってはなやかになる。正月らしい気分になる。常磐津は兼太夫、文字兵衛ほか。
萬次郎、梅枝の芸者、萬太郎、吉太朗の鳶頭、権十郎、亀蔵の世話人と揃って、歌舞伎の春はまず初台から明けるという舞台である。
『渡辺保の歌舞伎劇評』