歌昇、渾身の熊谷
歌昇初役の熊谷が渾身の力演である。
花道へ出たところ、芝翫筋がよく似合うこの人にしては、小柄が目立ってさすがに熊谷は手に余ったかと思わせた。その上に七三で止まって水晶の数珠をチャリンと刀の鍔に当てるので、あゝこれは吉右衛門型ではないのかと思っていると、前へ出した数珠を袂へ仕舞ってグイッときまったところで別人の如く豪快さを極め、あらためて描線の深さを堪能させた。
本舞台へ来て、竹「妻の相模を尻目にかけ」は振り返っての思い入れが長すぎる。しかし「ヤイ、女」からは意外にも夫婦の情愛が強く出るのは、一つは新悟の相模が長年連れ添った女房という感じにもよる。たとえば相模の「つい百里余り」辺りに出る夫婦の感じである。
藤の方が出て、ここの莟玉のバッと出る意気込みのよさにもよって、熊谷の「なにィ、藤の御方」と懐剣を持つ手を抑えて覗き込んでから刀を投げ出しての平伏するまでの、藤の方への敬愛、昔を偲ばせる大切な扱い、旧恩への厚情、後白河院の寵姫への尊崇の深さが出る。
しかしこの熊谷第一の出来は物語である。自分の小柄なのを考え、たとえば竹「打ち招けば」の軍扇を左へ翳して座っての大見得を中腰に大きく見せる工夫といい、渾身の力を振り絞って、グイグイと迫って来る力、さながら戦場の烈しさ目の当たり。ここらは当今の他の人にはない大時代な熱っぽさ。ことに竹「後ろの山より」の平山見得で、舞台端三段へ片足を落とすために出て来る迫力怒涛の如く、いい出来である。
しかしその一方竹「刀を抜き兼ねしが」で、いつもの軍扇を左脇へ持って右手を刀の束に見立てて手に掛けるきまりの一瞬前に、右手に持った軍扇を下手向きになって見込む思い入れの細緻さ。コレ、この刀で息子を斬らねばならないのかという感慨、鮮明で感嘆させる。
この硬軟二面の物語、戦場の迫力、演技のタッチの太さがこの熊谷第一のよさである。
「軍次軍次」は、最後の「グンージ」のせりふ廻しが巧いだけに、立って袴の上前を直したりチリを細かく払ったりするのが神経質過ぎる。
二度目の出からはさしたることもなく、制札の見得、首実検ともに出色の出来である。
三度目の出以後はさすがに若さが目立つ。ことに幕切れ花道七三へ行っての、遠寄せを聞いてから一つ廻るまでの間が繋がらないのと、笠を被って泣くまでの力演も繋がり難い。思い入れの気持ちがところどころで途切れる。もう一工夫欲しい。しかしこの若さでは仕方がないか。まずは大当りである。
歌六の弥陀六はすでに何度も手掛けた役。この人が出ると浅草公会堂の舞台が急に歌舞伎座になる。それに連られてというわけではないが吉之丞の梶原も大舞台。この二人なら熊谷に吉右衛門が出てもおかしくないのだから、歌昇は幸せである。
この二人を別格として出色なのは新悟の相模。竹「相模は障子押し開き」で襖を払って出たところはさしたることもなかったが、すでに触れた如く熊谷の「ヤイ、女」になると俄然古女房のような懐かし味溢れて、いい相模になった。今月この人、「十種香」では濡衣で米吉の八重垣姫を助け、「熊谷陣屋」では相模で歌昇の熊谷を助け、「魚屋宗五郎」では女房おはまで松也の宗五郎を助けていい女房役になった。この人独自の道を発見したといっていい。大手柄である。
続いていいのは巳之助の義経。口跡がよく、せりふ廻しが凛然として、亡父十代目三津五郎を彷彿とさせて聞かせる。
莟玉の藤の方は、すでに触れた如く出の意気込みがいい。橋之助の堤の軍次は、相模に引き留められるところで芝居をし過ぎる。もっと整然とポイントをきめて後は人の邪魔にならぬ様にするべきだ。
以上、この一幕は昼夜を通してこのチームの浅草歌舞伎の掉尾を飾る一幕になった。
この後が種之助の舞踊「流星」と松也の「魚屋宗五郎」。
「流星」は牽牛織女の件りがカット。舞台下手の雲間から流星が「御注進御注進」と滑って出て来る。時間のせいで是非もないが、これではだれに「御注進」するのか分からないだろうし、それに連れて雷の夫婦喧嘩騒動と、牽牛織女の年に一度の恋の逢瀬との対比も消えてしまう。
種之助の流星は、雷夫婦、子供、老婆の面の付け替えに忙しく、それが面白味になっていないばかりか、面は変わっても肝腎の身体が変わらないから、騒動の経過が半分も分からない。清元は延寿太夫、菊輔ほか。
次いで「魚屋宗五郎」。
松也の宗五郎は、昼の部の「源氏店」の蝙蝠安もそうだが、世話物の芸の面白さが身に付いていない。「源氏店」の瀬川如皐や「魚屋宗五郎」の黙阿弥は、ただ市井の庶民の風俗をリアルに描いたわけではない。それが芝居としての見もの、芸のしどころ、味わいどころになるように書いている。宗五郎を初演した五代目菊五郎の記録を読めば、彼がただリアルに芝居をしたたけではなかったことはよく分かる。この場でいえば宗五郎は段々酒に酔って行くのであって、そこに工夫もあり面白味もある。それが松也だとブツブツと途切れる。もう一工夫、気持ちの流れに工夫がいる。
ここでも新悟の女房おはまが地に付いた世話女房振りで点を稼いだ。
米吉のおなぎ、種之助の三吉、橘太郎の太兵衛、歌昇の浦戸十左衛門、巳之助の岩上典蔵、隼人の磯部主計之助、橋之助の鳶の者、歌女之丞の菊茶屋の女房、莟玉の娘と一座総出である。
昼の部は第一が「廿四孝」の十種香。
米吉初役の八重垣姫が、夜の部の歌昇に次ぐ今月の収穫である。
まず後姿で座っている具合が、ほっそりと上品、かつ新鮮で十六歳の少女になり切っている。それからのきまり、竹「煙も香華となったるか」、竹「回向しょうとてお姿を絵には書かせはせぬものを」、竹「名画の力も」の三つのポイントがキッチリと出来ている。
しかし障子から簑作を見てからはいくらか問題がある。竹「姿見紛う方もなく」は本文にもそうあっても思わず絵像を振り返った方が人情にもかない、かつ色気が出る。そうして置くと次の「見比べるほど生き写し」で二度目に振り返るのが生きるだろう。九代目団十郎がここで芸の曲を見せたことは有名だが、それにはそれなりの仕込みがあった筈である。
竹「殿御に惚れたということは」せりふで「うそ」竹「偽りに」からくどき、柱巻きに至るまでは手順、心持ちまことに整然としていい出来である。ただ一つの欠点は、赤姫の定式である、袂で畳にのの字を書くとか、片足を挙げて片袖を翳して進むとか、あるいは尻から男へ寄って行くとか、横ずわりになるとかいう定型が身に付いていない。ここらは年期の要るところかも知れない。
対する新悟の濡衣は、いかにも不幸な運命を生きる女らしく、チェーホフの「三人姉妹」のマーシャと同じく黒の着付けの女の姿になっている。今日八重垣姫になり損ないの様な中途半端な濡衣の多い中で、新悟は切って嵌めた良さである。ただ一点、「形見こそ今は仇なれ」で懐中から形見の血染めの片袖を出しての思い入れの順序が違う。向こうを見て思入れをしてから片袖を出すのではなく、つい片袖を出してしまって向こうを見て恋人を想うという方が順序として自然だろう。女の気持ちの持って行き方として違和感がある。これのみ欠点。
竹「心どきつく」はもっと派手でエロティックであってもいい。自分の叶わぬ恋の想いで体が思わず火照るのだろう。そうする方が観客も同感するのではないか。
歌昇の長尾謙信、種之助の白須賀六郎、巳之助の原小文治。
さて問題は橋之助の簑作実は武田勝頼。竹「行く水の」で正面に出たところは、この役に強い違和感がある上に、右手で持つた長袴のマチの持ち方、歩き方、足の運びが異様だった。せりふ廻し、発声もよくない。米吉、新悟二人の間に立って一人違和感が目立つ。
次が「源氏店」。八重垣姫でいいところを見せた米吉が一転して湯上がりの洗い髪のお妾姿。それが身についているのは偉い。
隼人の与三郎は、スッキリして当代のニンである。まず無難に出来たのはこの難役にして十分である。かつての横山町の大店の若旦那らしさはあまりないものの、その分凄味があっていい出来である。
問題は松也の蝙蝠安。すでに「魚屋宗五郎」でふれた様に松也に生世話の芸の面白さがないのが致命的である。ひたすら明るく、愛嬌があるのはいいとしても、町家を強請り騙りで脅迫している人間の凄味、恐ろしさ、暗さがなく、平面的である。嫌な奴の面白さがなければ面白くない。
この幕でいいのは、いうまでもなく歌六の和泉屋の一番番頭多左衛門。何気なく自然にしているが、これがこの芝居の本当の味である。続いていいのは橘太郎の番頭藤八、蝶紫の下女およし。
昼の部の最後は一座総出の踊り「どんつく」。
歌昇の太夫に巳之助のどんつく。これに絡んで種之助の太鼓打ちの三人の踊りが、常磐津らしい軽快さでいい。長唄とはむろん同じ浄瑠璃でも清元とは一味も二味も違うこってりした味を見せる。なかでも巳之助のどんつくの、鄙びた手振りの面白さは、江戸も末の踊りの身体感覚の面白さを目の当たりに偲ばせる。しかしこの面白さが今日の観客にどこまで通じるだろうか。
松也の田舎侍、隼人の大工、米吉の芸者、新悟の白酒売り、莟玉の子守、橋之助の若旦那。常磐津は一佐太夫、一寿郎ほか。
『渡辺保の歌舞伎劇評』