仁左衛門の早瀬主税
早瀬主税が湯島の境内で、第一幕の本郷薬師の縁日で逃がしてやった掏りの万吉に出会う。ベンチに腰掛けた主税が万吉に語る。自分ももとは掏りで、酒井俊蔵に助けられて生まれ変わった。この仁左衛門の主税の語る物語が、胸をうつ面白さだった。今月一番の出来である。
歌舞伎にはいわゆる「物語」という語りの芸がある。「実盛物語」「陣屋」の熊谷の物語、あるいは「石切梶原」の物語といった一段中の見せ場である。むろんそれとは違うが、仁左衛門の主税の、我が人生を振り返って今の身の上に及ぶ物語は、そのまま観客の胸にしみじみと聞こえて、さながら過去の事件が今、眼前に見る如き鮮やかさで思わず聴き入ってしまった。新派の、たとえば伊井友三郎の主税とはまた違った面白さであった。
湯島の境内は、夜の部の「婦系図」の大詰。その前に第一場本郷薬師の縁日があり、第二場に柳橋の柏屋の座敷があり、第三場で湯島になる。第一場は仁左衛門もさしたることはなく、万吉を救った時、彼が掏った財布をポンと投げてやるイキのあざやかさのみである。万吉は亀鶴。彌十郎の酒井俊蔵。なかでは松之助の古本屋が芝居に溶け込んで印象に残る。他には新派から坂田礼之進に田口守、河野英吉に鈴木章生、芸者に石原舞子、瀬戸摩純らが出ているが、それ程違和感がない。
二場目が柳橋柏屋の座敷で、酒井俊蔵が早瀬主税に「俺を取るか女を取るか」とお蔦との絶縁を迫る有名な場面だが、ここは仁左衛門の早瀬主税は辛抱役に徹して物語の筋を通したというに止まる。もっともこの場があるために次の湯島の境内が生きたのも事実である。彌十郎の酒井俊蔵、萬壽の小芳。成瀬芳一演出。
三場目湯島の境内。
仁左衛門の早瀬主税は、冒頭で触れた通り。対する玉三郎のお蔦は、リアルに芝居を運んでお蔦という女の可愛らしさ、激しい気性、粋な気質を描いているが、同じ泉鏡花の作品でも「天守物語」や「日本橋」と違って、この人の特色が濃く出たわけではない。一つは主税が第一場、第二場と筋が通ってその人生が出たのに対して、お蔦はここになってやっと出たせいもあって、二人の別れの切なさにバランスを欠いているせいもあるだろう。
以上の「婦系図」の後に、夜の部は玉三郎の六条御息所で「源氏物語——六条御息所の巻」三場がある。竹柴潤一脚本、玉三郎監修、今井豊茂演出である。
光源氏を間にして葵上と六条御息所の事件は、能楽はじめ多く劇化されているが、今度はそれとは違って葵上の実家の両親である左大臣家の側から描いているのが目新しい。三場の内、第一場と第三場がその左大臣家で、その間の第二場が六条御息所家になる。左大臣は彌十郎、その北の方は萬壽、娘葵上は時蔵。娘婿光源氏は染五郎である。その分、この事件の背景がよく分かるし、左大臣夫婦と娘婿の源氏の関係も面白いが、第三場の幕切れに、源氏と子供を抱いた葵上が未来への希望を語るのは、取って付けた様で無理がある。竹柴潤一の脚本は説明的なせりふが多く、今井豊茂の演出も芝居の運びが遅く、幕切れのシーンなどこれからまた別な芝居が始まるかと思ってしまう程のもたれ方で、余韻に欠ける。
という訳で結局見どころは、第二場の玉三郎の六条御息所の悲劇になる。彼女は源氏を諦めつつ、しかし僅かな希望に縋って待ち焦がれていた。その源氏が突然やって来る。折角来てくれたのに、いざ顔を見るとつい葵上への嫉妬で言葉が止まらなくなる。そしてついに源氏と別れてしまう。その経緯を玉三郎が巧く見せて面白い。脚本がつい追い詰めてしまう御息所の心の動きの手順を十分に描き切っていないにも拘らず、そこを芝居で補って面白く芝居にしているのだ。それを見ていると、たしかにここには生身の御息所がいて、その彼女の中に彼女自身も意識しない様な生霊が潜んでいるようであった。その面白さは、この一場だけを一幕劇にしてもっと突っ込んだ人間悲劇、性格分離のドラマにすればいいのにと思う程であった。
彌十郎と萬壽の左大臣夫婦は安定してよく、染五郎の光源氏も若く輝いて、時蔵の葵の上と連れ合いが取れている。
「婦系図」と「源氏物語」の二本立ての夜の部に対して昼の部は。菊之助の「俊寛」、菊五郎の工藤祐経に、尾上右近の一万、眞秀の箱王という若き日の曾我兄弟を描いた、「対面」の書き換えの新作舞踊。獅童、松緑の「権三と助十」の三本立て。
菊之助の「俊寛」と聞いた時には思わず耳を疑ったが、結果はやはり予想通りであった。菊之助は、よく研究もし、工夫もして、これ以上はないと思う程努力もしている。たとえば赦免状に自分の名前がない、「ナイ、ナイ」といって最後の「ナァーイ」で怒りから悲しみに変わる辺り実によく研究している。そのなかで欠点といえるものはたった一つしかない。それは幕切れ砂の上を滑って行く纜を追っ駆けるところ。故人吉右衛門は、一度は未練で纜を取るが、一転一瞬にして纜をほおった。そのしぐさには一行の旅の安全を祈るが如く万感の想いが籠っていた。それを見て私はここに俊寛の性根があると思った。菊之助にはそのほおる一瞬の転心思い入れがないから、俊寛の深い感情が出ない。しかし欠点はこの一点くらい他にはない。にもかかわらず面白くない。ニンにない役は是非もないのである。
歌舞伎のニンは恐ろしいものである。ニンに合えば簡単にその世界が開けるのに、ニンに合わなければ世界は決して開かれないのである。世界を開くにはそのニンを作るしかない。ガラは天性生まれつきのものであるから変えられない。しかしニンは芸の作る身体だから磨けば出来る。菊之助にもいつかは俊寛が出来るニンを持つことが出来るかも知れない。しかし今は持っていない。どう努力してもどう巧くとも面白くないし、たとえばリアルにやればやる程芝居がウソっぽく見える。芸は虚実皮膜の間にあるといったのは、この「俊寛」の作者だろう。その虚実の間の距離感がリアルにやればやる程消えてしまうのである。
この一幕唯一の聞きものは、葵太夫と淳一郎の竹本である。これだけが「俊寛」の格を保った。
歌六の丹左衛門は、爽やかで無難。又五郎の瀬尾は、その手強さ、その憎らしさ十分だが、芝居の最後の一瞬に押しが足りないのと、なにもしないでいる時についスキが見えるのが残念。萬太郎の丹波の少将はいくらなんでも白く塗り過ぎ。吉太朗の千鳥はクドキで死ぬ決心をする運びが不鮮明。吉之丞の平判官康頼。
次が松岡亮作の「音菊曽我彩」。
菊五郎の工藤祐経、魁春の大磯の虎、芝翫の鬼王が立派な見ものであることはいうまでもないが、この幕一番、イヤ昼の部全体で第一の出来はこの幕の巳之助の小林朝比奈である。その踊りの軽妙さ、その体の持ち味、古風なマスクに隈取がよく映っている具合、ことに振り付けの藤間勘十郎がこの人を巧く使って、前半はこの人と魁春が目を奪う。右近の一万、眞秀の箱王、左近の化粧坂の少将、橋之助の秦野。長唄は勝四郎、巳太郎ほか。
昼の部の最後は「権三と助十」。これが意外に面白くない。なぜなのか分からないが芝居が表面的で身に沁みない。出ている役者たちの個性が出ていないのと芝居がごく在り来りになっているからだろう。
獅童の権三、時蔵の女房おかん、松緑の助十、坂東亀蔵の助八、歌六の大家、東蔵の小間物屋彦兵衛、権十郎の石子伴作、左近の彦三郎、松江の猿廻し、吉之丞の左官屋勘太郎。
『渡辺保の歌舞伎劇評』