大一座の「籠釣瓶」
暗闇の場内がパッと明るくなるとここは桜の満開の新吉原仲ノ町。軒を連ねる引手茶屋、青竹の手摺に紅の誰哉行灯に山吹きの植え込み。一瞬客席が歓声に沸くと騒ぎ唄に乗って花道から客引きに連れられて勘九郎の佐野次郎左衛門が橋之助の下男治六を連れて出る。若き日の十八代目勘三郎そっくりの顔かたち。とても十八代目の十三回忌とは思えぬ舞台。改めて月日の立つ早さを思わずにはいられなかった。
佐野次郎左衛門は、明治の初演の初代左団次の高島屋一流の役を、初代吉右衛門が自分流の愛嬌たっぷりの男に仕立て直したのは御存知の通り。それを吉右衛門没後、実弟十七代目勘三郎が顔さえ醜くとも、その明るく誰にでも好かれる気質の「いい男」に仕立て直して我々を驚かした。播磨屋から中村屋へ。それをさらに十八代目勘三郎が受け継いだのを今また勘九郎が初役で継承した。中村屋三代。この間死んだ二代目吉右衛門を播磨屋直系とすれば、こちらは愛嬌溢れる「いい男」の伝統である。
しかし勘九郎の佐野次郎左衛門は、その伝統とは一味違う。勘九郎の芸風には二代の勘三郎とは違うところがあるからである。二人の勘三郎は「忠臣蔵」の由良助や「陣屋」の熊谷や「勧進帳」の弁慶の役者ではなかった。しかし勘九郎は由良助や熊谷や弁慶が出来る芸の輪郭のタッチの太さを持っている。その特色はこの佐野次郎左衛門にも出ている。「いい男」であるよりも「男一匹」の強さの気概である。それはどちらかといえば中村屋よりも播磨屋よりも高島屋系統の匂いに繋がっている。
むろん勘九郎は、今回は父の追善であり、猿若祭でもあるから克明に中村屋風を辿っているが、愛嬌よりも明るさよりも哀歓よりもこの人の特質が仄見える。たとえば一番印象的だったのは愛想尽かしで栄之丞を見て「身請けは思いとどまったッ」とキッパリいうところであった。そして今度はその両方が混然としている。いずれはどちらかに統一されて、この人なりの新しい次郎左衛門が出来るだろう。
これに対して七之助初役の八ツ橋は、歌右衛門とも玉三郎とも違う独特の八ツ橋を作るのに成功した。
歌右衛門の八ツ橋は、遊女の身で徒手空拳、遊廓に張り巡らされた搾取組織に立ち向かう悲劇的なヒロインであった。玉三郎はもっと客観的に遊廓と対立する女であった。しかし七之助はそのどれでもなく、ひたすら恋人との恋に生きる若い少女のような、純粋さの女性であった。彼女の眼中には遊廓の組織もそれと闘うという姿勢もなく、ただひたすら恋に生きている。たとえば愛想尽かしの場でフッとある瞬間、座敷の畳の上に落ちる視線の儚さ、哀しさが一番印象的であった。これがこの人でなければならぬ特色である。
見染の有名な笑いも、歌右衛門の様に一度笑いかけた顔を右手に反らしてもう一度改めて笑うのではなく、笑い掛けてそのまゝ自然に笑ってしまうという行き方である。
次の立花屋の店先は、全体に楚々とした若さで、次郎左衛門の手に煙管を当てるのも皮肉な抵抗ではない。廻し部屋ではそういう彼女の純粋さがよく出ている。ひたすら栄之丞一筋なのである。したがって恋人に迫られてやむなく決心する女の哀歓が出ている。去年十二月の「天守物語」の富姫に次ぐ当りである。
周囲も追善らしく顔が揃って大一座。
まずいうまでもないが、仁左衛門の繁山栄之丞が名品である。浪宅で湯屋帰りの片手に手拭いを下げて反対の片手で懐手、花道を出たところその若々しさ、あたりを払う光彩である。その若さも気持ちの上にハッキリ出て、自然にサラサラと運んでつい権八に乗せられる具合、幕切れの「ろくな噂も」の雇女に八つ当たりする幕切れまで軽く、淀みなく当てッ気なく逸品である。
廻し部屋はその軽さが七之助の八ツ橋を引き立てて、このために七之助の八ツ橋の遊女らしくない恋一筋の純情さが出た。
歌六の立花屋長兵衛が立派。それでも亭主がムキになる釣鐘権八を軽くあしらって丸め込む女房に時蔵。この役は宗十郎が亭主を凌ぐ鉄火さで当たり芸だったが、時蔵はそれとは一味違って優しい顔をしていながら梃子でも動かぬ手強さでいい。
仁左衛門、歌六、時蔵の三人に次いで松緑が釣鐘権八に出る豪華版。次郎左衛門も出来そうな人が権八とはと驚いたが、見れば十分役を掘り下げて自分のものにして、先輩たちに立ち交って自分を殺している。
児太郎の九重、橋之助の治六、芝のぶの七越、鶴松の初菊、片岡亀蔵の丹兵衛、桂三の丈助、吉之丞の立花屋の若い者、梅花の女中、歌女之丞の遣り手、京妙の新造、山左衛門といてうの太鼓持ち、玉朗、緑の芸者まで手揃いで、中村屋一家一門、故人の遺徳が偲ばれる、以上「籠釣瓶」が今月歌舞伎座一番の見ものである。
この前に鶴松のお光で「野崎村」と芝翫、獅童で舞踊「釣女」。
大抜擢の鶴松のお光は懸命の力演であるが、まだ無理が目立つ。ことに後半は義太夫狂言らしからぬ現代調が入ってリアルさが剥き出しになって風情を失う。六代目菊五郎が作った幕切れ、久作に縋り付くお光のリアルさとは違ってナマなリアルさが出てしまう。
児太郎のお染は色気が薄く。七之助の久松、彌十郎の久作は一通り。東蔵の油屋お常がせりふは小音になったものの場を締めている。
幕切れはいつもは上手揚幕へ(あるいは仮花道があればその揚幕へ)久松の乗った駕籠が、お染母娘を乗せた舟が本花道へ入るが、今度は上下逆になっている。どっちでもいいがこの場の演出はもう一度洗い直す必要がある。本行の文楽でさえお染の舟だけを見せるのに、歌舞伎はゴタゴタし過ぎる。駕籠かき二人が竹本の三味線に合わせて背中を拭くのなどは洒落にもならない。それに今度は鶯が鳴く、お光が思わず久作に縋り付く幕切れの間が狂っている。
ついでにもう一つ。家の裏手の梅の枝に凧が引っ掛かっているが、これは奴凧ではなく雪達磨の絵が本来だろう。お光の尼姿と対になっているのが、この凧を使う演出のポイントだからである。そういう演出をしないならば、奴でも雪達磨でもどっちでもよく、第一凧そのものが要らない筈である。
次の「釣女」は、獅童の太郎冠者がさすがに巧く間をとって観客を笑わせている。芝翫の醜女はわざとらしく品がない。萬太郎の大名、新悟の上臈。常磐津は兼太夫、文字兵衛ほか。
夜の部の最初は田中青滋作の舞踊劇「猿若江戸の初櫓」。出雲のお国と猿若がつれだって江戸へ来て、中橋に劇場をつくる景色を描く。勘三郎家ゆかりの演目であるが、生憎私が見た日(二月七日)は猿若役の勘太郎が急病で休演、勘九郎が代役。むろん今まで勘九郎が務めてきた役だから大過なく、出来も前回通りであった。
お国は七之助、八ツ橋の後で一層艶やかに見える。板倉勝重は獅童、福富屋万兵衛が芝翫、その女房が福助。立ち居が不自由な福助のために三人共に高合引きを使い、幔幕を使っている。しかしまずは福助も元気である。若衆は亀蔵、萬太郎、種之助、児太郎、橋之助、鶴松。中村屋一家一門の盛儀。長唄は杵屋喜三郎、巳太郎ほか。
次が「鮓屋」。
芝翫初役のいがみの権太は、去年の十月の「妹背山御殿」の鱶七、十一月の「鎌倉三代記」の佐々木高綱と座頭役のヒット続きだからさぞよかろうと期待して行ったが、案に相違して体の動きが鈍く、所々で二代目松緑のイキの閃きを見せたに止まって、全体としては不発であった。
順を追って書いて置きたい。
まず花道の出は菊五郎型でスッキリしている。門口でなかのお里と弥助のいちゃつきを見ての咳払い。二人の間に入っての二人に絡まれるところはまずまず。お里の「ビビビビビィ」を受ける辺りは愛嬌があって並み一通りの出来である。母親に金をねだるところはさしたることもなく「コチコチがようござります」から「ハイ、開きました」まで手際よく運んで、腰を低く屈めて門口を出て、ガラッと態度が変わってスーッと背筋を伸ばすと花道へ行くところは、二代目松緑そっくりのイキ。しかし暖簾口への引込みは、イキはいいのだが、肝腎の柱へ当たってクルッと入る技巧はなし。しかしここまではイキの変わり具合、芝居の運びまずまずである。
二度目の出になる。二重暖簾口から出て平舞台真中で股を割って後ろの帯に両手を廻した大見得は型通り。花道七三へ行って金を忘れたのに気が付き、ポンと手を打ってイトに付いて本舞台へ戻るところはさすがに面白い。しかし今の芝翫の位置からいえばこの位の面白さは出来て当り前だろう。戻って七三、右脇へ鮓桶を抱えてのツケ入りの大見得は一通り。アッといわせるほどでないのは、運びの間、動きの機敏さがもう一つハッキリしないからである。
三度目の出から首実検までは不出来。ことに首実検での中腰が中途半端な上に、梶原の「相違ない」を聞いて捲った右袖がハラリと落ちる技巧が巧く行かず反対の手で下ろしたのには仰天した。技巧はともかくも、これで体が緊張感を失い、かったるそうに見えるのがよくない。
手負いになる。長い述懐はさすがに聞かせるが、さりとて人の心を打つ情愛には足りない。
この幕第一の出来はやはり梅枝のお里。前回よりもさらに洗練されて「兄さん、ビビビビビィ」から「お月様も寝やしゃんした」、クドキと一際整然とたっぷりと出来た。
対する時蔵の弥助は、品位、柔らか味はいいが、抜き衣紋をしている割には突っ込みが足りない。堅実な歌六の弥左衛門と共に間違いはないがも逸脱した面白味もない。
又五郎の梶原、新悟の若葉の内侍、梅花の弥左衛門女房、辰緑の村役人、緑の小せん。
このあとに勘九郎と長三郎の「連獅子」があるが急用のために見られなかった。
『渡辺保の歌舞伎劇評』