綱豊の笑い
甲府宰相徳川綱豊は、理想と現実の間で悩んでいた。
彼が悩んでいたのは直接的には元禄赤穂事件の仇討についてであり、間接的には彼自身の叔父五代将軍綱吉と自分の関係であった。元禄赤穂事件で主君浅野内匠頭の仇吉良上野介を討つのではないかと思われていた大石内蔵助は夜毎遊蕩に耽っている。綱豊もまた猜疑心が強い綱吉の目を晦ますために遊蕩に耽っている。自分が次期将軍の座を狙っていると思われないためである。これが綱豊の現実であり、しかしもう一つの現実は綱豊の近衛家から来た正妻が、浅野内匠頭の死に同情した天皇の意向を受けた近衛家から浅野家再興を綱吉に願い出る様に夫綱豊に働きかけている状況であった。もし綱豊が浅野家再興を綱吉に願い出て実現すれば、仇討は不可能になる。しかし綱豊のなかには武士のかくあるべきという理想があり、その「侍ごころ」によれば主君の仇を討つのが正しい。
そこで綱豊は浅野家再興という現実よりも、大石内蔵助の仇討の理想を遂げさせてやりたい。すなわち目前の現実よりも理想を採りたい。その理想は倫理の問題である。武士の「侍ごころ」とは、人間の倫理であり、倫理に従えば現実を捨てなければならない。
綱豊はそこを迷い、新井白石に相談し、富森助右衛門と議論をし、結局結果よりもプロセス——つまり現実の利益よりも倫理の理想を採る。そうすることが彼の生きる道であり、後に「正徳の治」と呼ばれる徳川十五代将軍家の治世のなかでももっとも理性的な時代を作った。
今度の仁左衛門の綱豊は、その綱豊の苦闘をもっとも鮮明にした点で、これまでの彼の綱豊とも、私たちの見て来た多くの名優たちの綱豊とも一線を画するものである。そして同時にそれは綱豊の問題であると同時に、現代の私たち自身の問題でもあった。なぜならば現代でもそうであるが、目の前の利益はハッキリ分かっても倫理といい理想というものは目に見えないものでありそのためとかく忘れがちになるからである。この芝居の大詰能舞台の楽屋裏で吉良上野介と誤って綱豊に槍を付けた富森助右衛門に綱豊自身がいう通り、仇討の志の筋道こそ大切なのであって結果は問題ではない。上野介の汚い白髪首が問題なのではない。そんな結果はいらない、結果よりもプロセス、そのプロセスが大事。というが、そのことを理解するのは容易ではない。白髪首という結果は誰の目にも見えるが、プロセスは目には見えないらである。しかも皮肉なことに、赤穂浪士が歴史に名を遺すのは、その白髪首の方であってプロセスでも筋道でもなく、要するに倫理でも理想でもない。だから難しい。しかし綱豊はその難しさを克服したからこそ立派な政治家として生きた。
仁左衛門の今度の綱豊は、その難しい筋道を鮮明にして、立派な一人の人間として成長し生きた。その証拠に、今度の綱豊はしばしば笑う、その笑いが実に印象的だった。快活、寛濶、恬淡として、目に見えぬ倫理を生きて見せる、その難しさを鮮明にした人間の晴ればれとした笑いだったからである。
幸四郎の富森助右衛門は、かつての先輩たちのこの役(たとえば八代目三津五郎、翫右衛門、八代目中車)と違って、偏屈ないささか変人に見える面白さはないが、素直な普通の青年である。その青年が片意地を張るというところを作っていて面白い。今までの幸四郎はそこに違和感があったが、今度はそのマイナスをプラスに転じていい出来である。逆にこういう青年を相手にしているから、綱豊との芝居が盛り上がるという面もある。たとえば綱豊に追い詰められて、ついに今ここで上野介を討とうとしてしまう男に見える。
梅枝のお喜世は、序幕の松の茶屋が初々しくていいが、二幕目の御座の間は、仁左衛門、幸四郎の二人に挟まれてのウケの芝居がもう一つ。自分を殺しながら芝居をして行く具合が巧く出ていない。
歌六の新井勘解由が持ち役でいい。
孝太郎の江島はいいが、時々強く出るために声が地声になるのが品格を欠く。萬次郎の浦尾がさすがに老女らしい風格がありながら意地の悪さが自然に出ていていい。由次郎の津久井九太夫。松十郎の小谷甚内が過不足のない出来。
この「御浜御殿」の前に、菊之助の松王丸、愛之助の武部源蔵の「寺子屋」、四代目雀右衛門十三回忌追善、当代雀右衛門、兄友右衛門はじめ一族に、菊五郎、松緑という大顔合わせの舞踊「傾城道成寺」がある。
菊之助の松王丸と聞いた時は、私もさすがに驚いた。どちらかというと夜の部の「伊勢音頭」の今田万次郎がピタリという菊之助に前半敵役の松王丸とはどうだろうかと思った。歌舞伎はニンと役柄が合致しないと世界が開けないからである。見てみると案の定前半が巧く行かない。丸顔で優しい菊之助の顔が、五十日鬘に病鉢巻が似合わず童顔に見える。菊五郎型の銀鼠に雪持ち松の羽織着付けもどこか色が薄く、戸浪のいう「三つ子のうちの悪者」にはとても見えない。
それでもせりふはよく勉強していて、意外に太いタッチで低音がよく出ている。第一声の「ヤァレお待ちなされ暫く」は舅吉右衛門のような工夫がないが、一応は聞くことが出来る。咳は「おろそかには」で、これも芝居として効かないのは、春藤玄蕃への配慮に咳をするという芝居が足りないからである。
内へ入ってからの付け回し、源蔵との裏見得も奥行きがなく、「ナ、ナニを馬鹿な」は強くしようとして大袈裟過ぎ、「ソレ家来衆」だけで「源蔵夫婦を取巻き召され」のカットは本文通りということだろうが、折角名優たちがせりふのイキを変えるために工夫した見せ場、勿体ない。
「無礼者め」の大見得もきまった途端に額に手を当てて俯く六代目型だが、そのイキ、イキの変化ももう一つきっぱりしない。首実検は、「出かした」をいわないのはいいとしても、さしたる事もなかった。というわけで前半はせりふの一部を除けば、さすがに一月の「石切梶原」のようにはいかなかった。後半少しは持ち直したのはこの人のニンが敵役に向かない証拠である。「あの笑いましたか」辺りから前半ほど違和感がない。当然である。
対する愛之助の源蔵は、竹「立ち帰る主源蔵」で花道へ出たところ、七三で気を変えてツカツカと本舞台へ来るところ、ともに若さが目立つ。門口を開けての「いずれを見ても山家育ち」は「役に立たず」といい切っている。しかし戸浪への物語からせりふがよくて十分に聞かせた。もともと調子のある人だから面白いのである。「すまじきものは宮使い」で戸浪を抱くのも片岡流で色気があっていい。
松王丸の出に上手一間へ入らず正面暖簾口へ入るのは、後に竹「打てば響けの内には夫婦」で暖簾口から出て神棚の一巻を取って懐中するためだろうが変わっている。
松王丸との対決は手強くてよし。「五色の息」から千代とのカラミも、後半へ行けば行くほど手馴れさが出て、いい源蔵である。いろは送りで廻り焼香の盆を持って出るのも世話の味があっていい。
新悟の戸浪も世話女房振りが身に付いた味になっていていい。
しかしこの一幕第一の出来は梅枝の千代である。花道へ出て七三で揚幕を振り返った姿、黒の着付けに白い瓜実顔がクッキリと浮かび上がって、これが源蔵夫婦がいっていた小太郎の母かと思わせて、舞台の景色が一挙に変化する。
源蔵との遣り取り、「お役に立てて下さんしたか」の不安と疑惑の心持もよく、ことにクドキで六字の幡を抱いて、小太郎に見立てて頬摺りする姿に母親の悲しみが溢れて出色。朝幕とはいえ立派に歌舞伎座の立女形ぶりである。
東蔵の園生の前は、自然にしていて品格がある。萬太郎の春藤玄蕃はよくやってはいるが憎みが足りず、これはこの人のせいではなく配役の間違い。鷹之資の涎くりも気の毒。橘太郎の百姓。丑之助の小太郎が確りしている。
次の「傾城道成寺」は、今度は追善狂言とあって新作同様の新演出。はじめに紀州道成寺の大広間。廣太郎の難波、廣松の真名辺が平維盛が今日ここで出家、白川の安珍になるという。間もなく雀右衛門の傾城清川実は清姫の亡魂が傾城姿で花道スッポンにせり上がっての一踊り。本舞台へ来ての松緑の維盛との長「誰に見しょとて」のクドキがここ一番の見どころ。
それから友右衛門の僧妙碩の見顕しになり、後ジテ姿の清姫のクルイになる。それを留めて上手の几帳を取ると菊五郎の導師尊秀が出て幕切れ。舞台には雀右衛門を中に上手へ菊五郎、友右衛門、下手に松緑、廣太郎、廣松と並んでスケールの大きい舞台である。長唄は今藤尚之、杵屋巳太郎ほか。
以上が昼の部で夜の部は幸四郎の福岡貢で「伊勢音頭」の通し。
序幕が相ノ山、宿屋、追っ駆け、二見ヶ浦、太々講。二幕目が油屋、奥庭である。
順に行くと相ノ山はただ筋を通したというだけ。「笹々豆こ」の伊勢参りの風情も、お玉お杉の風景もあったものではなく、菊之助の今田万次郎、新悟のお岸も、歌昇の林平、市蔵の徳島岩次、徳松、京蔵のお玉お杉、廣太郎の杉山大蔵、吉之丞の桑原丈四郎ともに台本をなぞったというだけで、芝居になっていない。リアリティがないのである。
宿屋になってはじめて幸四郎の福岡貢が出る。この役はこの人のニンで悪くないが、菊之助の今田万次郎と連れ立ったところ「二人万次郎」の趣き。貢は「ピントコナ」といい、万次郎は「ツッコロバシ」という役柄の違いがまるで見えない。「ツッコロバシ」は背中を突くと転がるという程の柔らかさ頼りなさをいい、「ピントコナ」はそれよりもピンシャンとして強くキッとしていなければならない。そこらが幸四郎と菊之助でははっきりしない。第一いくら優しくとも万次郎は侍、貢は昔は侍でも今は御師である。そこらもはっきり意識すべきである。
又五郎の藤浪左膳が舞台を締めるが、なんといっても他の人たち、宿屋の人間、仕出しの旅人にも生活感がなく、世話物の味わいに乏しいため芝居に見伊達がない。
次に追っ駆けの二場、野道、井戸端はほとほと退屈した。その原因は、大蔵、丈四郎、そして林平のミスキャストのためである。たとえば若手立役の廣太郎に三枚目敵の憎たらしさ、可笑し味を求める方が無理だし残酷だし、「熊谷陣屋」の梶原の様な時代物の敵役が巧い吉之丞に世話物の端敵を要求する方が無いもの強請りだし、時代物の得意な歌昇にいくらなんでも世話物の奴の可笑し味は無理というものである。これだけミスキャストが揃えば芝居が退屈にならない方が可笑しい。そのためにさすがの万次郎も貢も割を食っている。二見ヶ浦の「嬉しゃ日の出」の貢の手紙を持った手の動きなどなんのためか分からず、これでは芝居が面白くなる筈がない。「伊勢音頭」はこんな水っぽい芝居ではない。
太々講は彦三郎の正直正太夫がこれも役違い。無理である。六代目菊五郎が手を染めてから大きな役の様にいわれるが。本来は三枚目の役である。もう一度本質に戻って考えれば、彦三郎にこの役が行く筈がないし、受け取りもしないだろう。
この場の幸四郎の貢、雀右衛門のお紺はまずは無事。橘太郎の猿田彦太夫は、突込みが足りず、正太夫との役の違いも不鮮明である。
この場の主役は貢の叔母おみねであるが、これだけの大舞台では高麗蔵に捌き役の貫目が足りない。魁春で見たかった。
二幕目が古市油屋と奥庭の殺し。
幸四郎の福岡貢は、ここは一種の型物だからそれまでの幕とは違って仕事がキッチリして、さすがに「二人万次郎」とは見えず、見直した。しかしたとえば万野に向かって立身できまる、有名なところでは段取りが明確ではない。菊五郎型で行けば立って腰の大小を探って白扇を裂いてきまるのだが、幸四郎の様に白扇を使わず後ろへ両手を廻してきまるのならば、腰を探って大小がないので廻した両手を照れ隠しに後ろの帯に掛けてきまるのだろう。その探した両手を転用する芝居が抜けている。
奥庭になってからは、形もキッパリしていい。しかしこのイキで前半も行けばこの役はもっと楽しく面白くなる筈である。
魁春の万野は亡父歌右衛門譲りといいたいところであるが、歌右衛門の万野は彼一代の特殊な当たり芸、お手本にはなり難い。魁春だとどうしても憎らしさが効かない。これは芸のためではなくニンのためだから仕方がない。
雀右衛門のお紺はさすがにこの幕では一番の出来。ことに今度は貢に侍は嫌だ、侍は止めてくれというところが胸を撃った。今まで私はこのお紺の言葉は岩次実は北六に聞かせるだけのものと思っていたが、今度の雀右衛門を見ているとお紺がシンから侍は嫌であり、もっと自由に暮らして行きたいという希望が仄見えて、哀れさがひとしお身に滲みた。いかにも哀れな、いいお紺である。
菊之助の万次郎、彌十郎のお鹿、愛之助の喜助、新悟のお岸、市蔵の岩次、亀鶴の北六、幸雀の千野。
最後が松緑、梅枝初役の舞踊「喜撰」。これが夜の部一番の見ものであった。
松緑の喜撰は、花道へ出たところ、若くて味わいがもう一つだと思ったが、舞台が進むにつれて洒脱、闊達さ、さらに体をキッチリ動かしての踊りの面白さが出て、それがチョボクレに至って頂点に達し、見ている者を陶然とさせた。この人のものだろう。
梅枝のお梶も「寺子屋」の千代に順ずる当たり。クドキの仇っぽさ、色気の濃さは、曾祖父三代目時蔵を彷彿させる出来である。
権十郎以下のお迎え坊主はなんだか騒々しい。清元は美寿太夫、菊輔ほか、長唄は勝四郎、柏要二郎ほか。
『渡辺保の歌舞伎劇評』