松緑初役の「四千両」
五月歌舞伎座は恒例団菊祭。
昼の部は舞踊「鴛鴦襖恋睦」で開く。この作品は江戸時代の顔見世の一番目四建目(四幕目)に出来た浄瑠璃だから、さすがに午前十一時の開幕劇には違和感がある。松也の河津、尾上右近の喜瀬川、萬太郎の俣野であるが、見ていて解釈に混乱があると思う。
前半は相撲、後半は鴛鴦という分け方は昔からあるが、こう分けると世界も曲も全く違う二場の舞踊に見えてしまうから分り難い。原作は一つの世界であり、ただ前半は現実の河津俣野の相撲の争い、後半も現実ではあるが幻想的な鴛鴦の精の世界になるというだけである。したがって前半の喜瀬川と後半の雌鳥の精は全く違う二役であり、河津は前半は現実の人間、後半はその人間に鴛鴦の雄鳥の生血が入ったいわば「河津実は鴛鴦の精」とでもいうべき一役。俣野だけは全編通して現実の人間ということになる。この設定が今度の振付にも役者にもよく分かっていないらしく、見ていてもこれでは観客にも分からないだろうと思った。
右近の喜瀬川は、嫋やかで充分美しいが、拍子舞の面白さ、相撲の神話を語りながら現実の河津と俣野の源平の政争の間に割って入った女の、次元の違いがもっとハッキリ出るべきである。そうなれば後半の雌鳥が喜瀬川とは全く違う人格だという面白さが出ただろう。
松也の河津は、柔らか味が足りず、キッとし過ぎる。これも相撲と色事の両面の区別が出来ていないからである。萬太郎の俣野は立敵のスケールに欠ける。この立役二人は、役者の格を別にすれば、ニンが逆なのかも知れない。前半の長唄は杵屋巳三郎、巳太郎ほか、後半の常磐津は和英太夫、菊寿郎ほか。
続いて四代目左團次一年祭と銘打った歌舞伎十八番の「毛抜」。
故人左團次の嗣子男女蔵の粂寺弾正は、ユーモラスなところが意外に出ているのがいいが、カドカドの見得で一々うなり声をあげるのは聞き苦しい。イキが詰んでいれば声は出ない筈である。男寅の錦の前は、父男女蔵とは芸風が違って女形、年相応にしっとりと出来て、政争の具にされた女の悲劇が浮かんでいる。
この父子を囲んで、今度の「毛抜」は大顔合わせというべきか。菊五郎劇団のチームワークのよさである。
まず菊五郎の小野春道。いつもの小忌衣の公家風と違って鶯茶の羽織着流し、生締めの鬘、白塗りという若づくりで華やかである。時蔵の腰元巻絹は愛嬌たっぷり、前後は全て萬次郎の乳人若菜に任せて弾正の接待だけに出ている。弾正の幕外の引込には團十郎の後見。松緑の小原の万兵衛が軽くて鮮やかな出来。又五郎の立派な立敵ぶり、対する秦民部は権十郎。松也が前幕から一転赤ッ面の八剣数馬、対照的な梅枝の秀太郎。鴈治郎の小野春風は分別臭い。以上の豪華版である。
昼の部の最後は團十郎の「湯殿の長兵衛」。いつもの通り村山座、花川戸長兵衛内、水野の屋敷、湯殿の四場である。
團十郎の長兵衛は、故人吉右衛門二代の一流の愛嬌と人情味と違って成田屋風。野性的な、暗く鋭い眼光が特徴の長兵衛である。キッパリしていい。ことに湯殿のタンカは意気軒高、五月の青嵐が舞台に吹き渡って胸がすく出来であった。
対する水野は菊之助。落ち着いて品があっていい。これで癇癖の強さが出ればなおいい。児太郎の女房お時は、團十郎の長兵衛に相応しく、覚悟の座った女でいい。錦之助の近藤登之助、右團次の唐犬権兵衛がよく、男女蔵の出ッ尻清兵衛は「毛抜」の後にはいささか気の毒。家橘の渡辺綱九郎、九團次の坂田金左衛門、新十郎の舞台番。
劇中劇の「公平法問諍」は、市蔵の公平が手慣れてよく、吉弥の頼義、玉太郎の義綱、御台が歌女之丞、右左次の慢容上人と手揃いである。
長兵衛の子分は歌昇、尾上右近以下。新蔵の保昌武者之助が達者なところを見せる。
夜の部は「先代萩」の御殿と床下と「四千両」の二本立て。
菊之助七年ぶり、三度目の政岡は、さすがに前回よりも成長してスケールも大きく、大分ハラも出来て来たし、今度は前回カットだった飯焚きに挑戦。しかし床の浄瑠璃の「お末が業を信楽や」や「心も清き洗い米」でほとんどイトに付かず一体にサラサラしている。鶴千代に仕えながら、二人の子供を守りながらその一方で一生懸命教育する母の性根に徹しているのはいいが、「先代萩」は義太夫狂言、多少は形容の造形も必要だろう。立身で下がって来て二重に腰掛けている千松に当って手に持った盆で涙を隠すところなどあっけなくて物足りない。とかく動きが少ない長丁場、ポイントは際立たせないと面白くない。その上に飯焚きの点前がとかくぎこちない。政岡は毎日飯を焚いているのだから、無意識に手が動かなければならない。そうすることによって実はカドカドのポイントが浮かんでも来るのである。
菊之助の政岡でよかったのは、飯焚きの終わり、竹「心の奥の信夫山」で二重下手茶箪笥の前で裏向き立身で泣き崩れるところ。心が耐えかねるのが形に造形されている良さ。しかしここを除けば最初の「今お館に悪人はびこり」の長ぜりふも千松の湯の毒見もさり気ない。
栄御前の出になる。八汐が千松を刺す。ここはこの人に限らず、千松が毒に当って苦しみ出した時にはまるで知らん顔をしていて、刺された瞬間に途端に仰天するのはおかしい。奈河亀輔の原作ではここで政岡は毒薬に気付き、栄御前と取引をする位の芝居なのである。続く竹「涙一滴目に持たぬ」は一通り。鶴千代は、政岡自身が上手奥へ連れて行く。これはある型だが気が抜ける。
栄御前が引込んでからのクドキになってはじめてこの政岡は本道へ出る。なかでも「唄の中なる千松は」の件りは、子を失った母親の喪失感が鮮明でいい。
歌六の八汐は、手強さ、憎っぷり十分でいいが、意地の悪さ、女らしい色気に乏しいのが惜しい。
雀右衛門の栄御前は、まだ盛りの花のこの人にこの役は気の毒という他ない。精々手強くやってはいるが、それでも悪の影が薄いのは是非もない。
米吉の沖の井、芝のぶの松島。
床下になる。右團次初役の荒獅子男之助は、合びきに掛かった姿がハコになっていないのと鉄扇が垂直に立っていないのが気になる。鼠を打ってからの「合点だ」の前後の闇を透かす芝居はもっとハッキリすべきだ。そうでないと「取り逃がしたか、残念だ」が生きない。
團十郎の仁木弾正は、さすがに凄惨の気配、色気充分でいいが、花道七三から舞台付け際へ戻るのが段取りに見える。闇を透かす芝居が薄いからである。古風な面明かりはいいがそれにしてはライトのサスペンションがふらつくのはよくない。
以上で一時間四十分ほどかかった。足が遅いのは芝居の運びの間が詰んでいないからである。
一日の最後は「四千両」。四谷御門外、牛込藤岡内、熊谷土手、伝馬町大牢、牢屋敷言い渡しの五場である。
松緑初役の野州無宿の富蔵は、序幕の四谷御門外が快調である。せりふの癖もなく、幕開きの二人の折助の相手をしている具合、軽く世話の味が抜群のよさである。「おでん燗酒、甘いと辛い」の有名なせりふはもう一息軽い巧さが、周囲の闇を透かしている気配が欲しいが、それ以外はいい出来である。梅玉三度目の藤岡藤十郎と出会って「旦那仕事をするのだね」というせりふは、特に黙阿弥がト書きに「ト小声にていふ」と指定したところで、周囲を気にする小声はむろん、しかし小声になった鋭さもなければならない。この一言が二人の運命を決めるからである。その具合もよかった。
梅玉の藤十郎は、富蔵よりも年かさといい、黒の着付けといい、品のよさといい、富蔵の昔の若旦那と知れていい。気の弱さ、意外に憶病なところもはまり役で、堀端の二人の芝居は、この二人で今月の見ものになった。幕切れに一寸出るだけだが、伊丹屋徳太郎は巳之助、掏りの寺島無宿長太郎は左近。
しかしこの場の快調に比べて、次の藤十郎の家はよくない。富蔵と藤十郎が一瞬仲違いして斬り合いになり、さらに元の鞘に納まるというドラマの起伏が明快でない。運びの輪郭がハッキリしない。富蔵の心持ちがもっと突っ込まれる必要があるし、それに合わせて藤十郎も受けなければならないからである。そこが浅いと芝居が平板で面白味が出ない、
次の熊谷土手は、富蔵が金沢で逮捕され江戸へ唐丸駕籠で送られる途中だが、前の饂飩屋がないので、松緑の富蔵も彌十郎の饂飩屋六兵衛も梅枝の富蔵の女房おさよも芝居が身に沁みない。梅枝はこの地味な世話女房をそれなりにこなしているが、これが梅枝としては最後の舞台というのはあんまりだ。橘太郎の生き馬の眼八は憎たらしくない。権十郎の護送の役人浜田左内。
次が後半の眼目伝馬町の大牢。
松緑の富蔵はこの場が序幕の四谷御門外に次ぐ出来。キッぱりして爽快でいい。しかしにも拘らずこの場は少しダレる。その理由は二つある。第一に主だった囚人に個性がない。歌六の牢名主、團蔵の隅の隠居はいいとしても、彦三郎の数見役、坂東亀蔵の頭、歌昇の三番役以下、主だった囚人たちに個性がない。松江の田舎役者の可笑し味、橘太郎の眼八の憎っぶりも足りない。第二にさらにそれ以外の脇役が手薄なのである。私がはじめて見た「四千両」の時はすでに六代目没後であったが、六代目に扱かれた人たちがソッくり揃っていて、その面白さは主役そこのけ、すってん踊りなぞ爆笑ものだった。一生主役は出来なくとも、この囚人をやらせれば天下一品という人がいたのである。そういう人が居なくなってこの場は空虚になってしまった。
最後が牢屋敷申し渡し。松緑、梅玉二人が並んで立ったところで幕であるが、ここは原作通り二人が花道に引っ込むところで幕にすべきだろう。この引込みを含めて「四千両」はもう一度上演台本、演出を検討すべきだろう、そうすれば松緑、梅玉でももっと面白くなる筈である。申し渡しの役人石出帯刀は楽善。
『渡辺保の歌舞伎劇評』