「杉の森」の復活
七月の歌舞伎座は、昼の部が團十郎一門に梅玉、魁春、雀右衛門を加えての五年前の「星合世十三團——成田千本桜」の再演。夜の部が幸四郎一門に雀右衛門、高麗蔵、中車に松也、巳之助、尾上右近を加え、二代目猿翁が昭和五十六年四月に明治座で初演した、奈河彰輔が在来の「太閤記」ものから集めて作った「裏表太閤記」の通し。昼夜二本の大作を見終わって見ると、毎月と違って疲労感が濃い。早替わり、宙乗り、ショウ仕立ての、オモテにははなやかだが、実のある芝居らしい芝居がないからである、そのなかで唯一芝居らしく実があるのは、夜の部の「太閤記」の二幕目第一場の備中高松城の場だけである。
この原作は浄瑠璃「絵本太功記」七日目の段、俗に「杉の森」として有名な件である。私は猿翁初演の明治座も文楽での上演も見たことがなく、今度はじめて見た。猿翁の時は、当時の戸板康二の劇評を読むと浄瑠璃の本文通りだったらしいが、今度は大きく改訂されている。その改訂がいい。復活としても古典的な骨格があり、その一方現代的な意味もあっていい舞台である。
高松城は、真柴久吉(幸四郎)の「水責め」にあって落城寸前。和睦の使者に立った鈴木孫市(染五郎)は久吉に拒否され、その咎によって父親喜多頭(幸四郎二役)に勘当追放される。
しかし喜多頭は久吉へ本能寺の変を知らせる密使を斬って小田春永(彦三郎)の滅亡を知る。これを好機と見た喜多頭は、わざと忍んできた息子孫市の手に掛かって、瀕死の息の下で自分の首とこの京都からの密書を持って久吉に掛け合い、必ず和睦をかち取れという。
この悲劇が面白いのは、孫市が主君はじめ城の一族を助けようとするには、親を殺さねばならず、親殺しの罪を避けようとすれば主君はもとより一家中を犠牲にしなければならないという、孝か忠かの矛盾の悲劇にある。ありきたりといえばそれまでだが、この状況に巻き込まれる父子の葛藤がよく出来ている。現に私は見ていて現代の戦争——ウクライナやガザ地区の状況を思い出した。今も昔も戦争は情報が大事、一方和平を求めるにはそれなりの犠牲が必須である。その矛盾を乗り超えた鈴木孫市は、親殺しの罪を背負って、主人はじめ城中全員の命を救うのである。
今度の改訂は、この家庭悲劇が原作よりも鮮明であり分り易い。役者も好演している、幸四郎の喜多頭の、父として、一家の家老職としての二重の苦しみ、染五郎の孫市の子として親殺しの大罪を引き受ける決断。どちらも噛み合って、男のドラマが明快。この父子の悲劇に絡む二人の女、孫市の母関の谷の笑也、祖母浅路の笑三郎もよく、この四人のドラマが今日一日中の見ものになって、現代に蘇った。原作は子役を遣って時代錯誤の残酷ドラマであるが、これは現代の戦争を思わせるドラマになったのは大手柄である。
幕開きに今年九十四歳になったという寿猿の軍兵が、とぼけた芝居で大に笑わせる。年代記物だろう。
しかし面白いのはこの一場だけ。
序幕の発端は松永弾正(中車)が春永の上使二人(廣太郎、錦吾)を斬って四王天但馬(青虎)に息子武智光秀(松也)に自分の仇を討てという遺言を残して自刃する短い場面。これを発端に第一場がお馴染の「馬盥」の本能寺である。松也の光秀は凄味、滋味ともに薄いのは戯曲に欠点があるからだ。鶴屋南北の名作「馬盥」は、あくまで光秀は春永に詫びをしようとして本能寺へ来るのだが、その忍耐の見せ場はほとんどカットされ、しかもいきなり堪忍袋の緒が切れて春永を殺してしまうという乱暴な幕切れ。それなら最初の光秀のしおらしさは狂言だったのかという疑問が残る。これでは芝居が面白くなる筈がない。彦三郎の春永の手強さだけが見ものの一幕。ついでにいえば、明治座の時は全て役名は小田春永、武智光秀、真柴久吉だったが、今回は全部史実通り。その方が今の観客には分りやすいだろうという配慮からだろうが、実は史実の織田信長と芝居の小田春永は同じではない。たしかに実名を使うなというのは幕府の命令だったが、その結果浄瑠璃や歌舞伎では、史実のモデルを匂わせ乍らイメージを膨らましたところに面白味がある。だから小田春永と織田信長は同じ人間ではない。史実通りにするとかえって混乱し、面白味も失う。本能寺の住職実は四王天は青虎、森蘭丸は京純。
第三場と第四場が愛宕山の登り口と山中であるが、ここで本能寺の変を知らずに遊蕩に耽る、小田春永の長男春忠(巳之助)と武智光秀の妹お通(右近)の恋物語。しかし春忠は愛宕山の天狗に化けた追手に殺され、お通は一子三法師を守って落ち延びるというだけのことである。巳之助も右近もせっかくの出番なのに大した見せ場もなく残念。
このあと第二幕目の最初が「杉の森」で、第二場から逃れてきたお通が久吉と孫市に追いつき一緒に船で京都へ戻ろうとすると生憎の大嵐。お通が身を投げて海神(白鸚)に祈った結果、船は空中を飛んで琵琶湖に着水という夢物語。折角「杉の森」で芝居らしい芝居になったかと思うと、またしても訳の分らぬショウ仕立て。「杉の森」と同じ作品とはとても思われず、ただただ呆気にとられるばかり。白鸚の海神、幸四郎の久吉、染五郎の孫市という高麗屋三代の顔合わせというだけのことである。
二幕目の最後は大津坂本の大滝。ここで久吉と孫市が、光秀を討ち止める。これも本水の立ち廻りというだけでさして見応えがない。
大詰第一場は常磐津(和英太夫、菊寿郎ほか)で舞踊「孫悟空」。幸四郎の孫悟空が天空の厩で大暴れ。これが面白くないのは、そこまでの芝居との繋がりが分からないからである。この場の最後に孫悟空が沙悟浄(九團次)と猪八戒(青虎)と共に天帝(猿弥)と大后(門之助)から日本へ追放になる。そこで幸四郎の猿の宙乗り。続いて二人のおどけの宙乗り。今日昼の部から数えて四回目の宙乗りにはさすがに食傷する。
次の場は大坂城。ここで秀吉が「さては今のは夢であったか」になる。猿面冠者といわれた久吉が猿の悟空の夢を見るというのだから洒落も行き止まりである。
そこへ雀右衛門の北政所、高麗蔵の淀殿、中車の徳川家康が出て、この三人が長唄の舞踊「三番叟」の翁、千歳、付け千歳を踊る。長唄は勝四郎、勝七郎ほか。そこへ若手花形四人——松也、巳之助、右近、染五郎に幸四郎が入って三番叟を踊る。目出度く幕というカブキ・ショウ。なかでは巳之助の踊りが断然目を引く。体が違うのである。この人をもっと重用すべきだ。
以上夜の部に対して、昼の部は團十郎の「千本桜」の十三役。初演はあれよあれよという間の早替わりで目を奪われたが、二回目となれば見る方も落ち着いて、いいところも目に付けば悪いところにも気が付く。
発端は前回通り福原の湊のだんまり。能登守教経が比叡山の荒法師横川の覚範を殺して覚範に成りすましたところへ、渡海屋銀平の知盛、維盛の三人が出てのだんまりである。團十郎が教経、知盛、維盛の三役を早替わりで見せるという趣向だが、だんまりにしては舞台が明るく、あゝあれは團十郎本人、こっちは吹替とあからさまになってしまうのと、團十郎がそれぞれの役その人になり切って見せる時間も余裕もないのが難点。
このだんまりが終わると團十郎が柿色の裃姿で花道スッポンへせり上がって口上。人物の相関図の説明があってすぐ引っ返して堀川御所。御殿の二重の御簾が上がると上手に團十郎の藤原朝方、下手に梅玉の義経。朝方は「妹背山御殿」の蘇我入鹿の格で公家荒れの藍隈というところだが、早替わりの都合で持ち前の凄味も薄く平凡。しかし義経に教経、知盛、維盛三人の行方を詮議せよという命令、初音の鼓を渡すところがあって、筋がよく分かる。そこへ上手一間のうちに團十郎の卿の君が見える。これが十三役中ただ一つの女形。初演の時にはさすがに違和感があって男にしか見えなかったが、あれから五年、今回は余裕が出て、無理は無理でも初演ほどではないのは、腕が上がった証拠。
そこへ雀右衛門の静御前が出る。急を聞いて駆け付けたという花道の出がタップリしていい出来である。梅玉、魁春とともにこの静が芝居を支えた。
それから團十郎が早替わりで川越太郎になるのは前回通り。この役が團十郎のニンに合っているのは十三役中いがみの権太に続いて第二位。しかし芝居はさしたることもなく、卿の君が討たれて道具替り。
次が鳥居前で、幕開きは團十郎の弁慶一人立ち。「芋洗いの弁慶」を当て込んでだろうが「暫」の腹出しのような拵えでスッキリしない。
静御前、義経の件があって、梅玉の義経、雀右衛門の静は情愛滴るばかり、さすがに一級品だが、ここへは弁慶は出られず。静の一人舞台になって新十郎の逸見の藤太が出るところへ團十郎の狐忠信。前回は道行の忠信風の拵えでたしか書割を割って出た様に覚えているが、今度は普通に菱皮の鬘、隈取、馬連付きの狐火の四天、紅白の仁王襷。こっちは弁慶と違って本役。義経、静、忠信と三人引張りの見得になったところへ析が入って、渡海屋に廻る。
すぐに右團次の相模五郎が出る。入江丹蔵は團十郎で次の場へ出るのでこの場はカット。相模五郎一人だが、右團次はきっぱりしていい。花道の引込みにチラッと本舞台を振り返って、それまでの道化の顔がスーッと消えて本イキになるのは厳密にいえば底割りになるが、この位は二人分を背負っている以上大目に見るべきだろう。
團十郎の渡海屋銀平は、唐傘を挿し、厚司を羽織って足駄の音高く花道へ出たところ颯爽としていい。ニンということだけでは、この銀平の出が川越太郎に次ぐ出来である。
今日の上演台本では、ここで義経と顔を合わさず後は女房に任せて障子屋体へ入ってしまうが、本文通りキチンと顔を合わせて一芝居あるのがいい。芝居に情が出て後のどんでん返しが効くのである。
梅玉の義経は、笠を翳しての花道七三での思い入れといい、見るともなく本舞台を見る具合が巧いものである。魁春の典侍の局は、義経を見送って辺りを見て「娘々」といいながら暖簾口へ入って行く具合がいい。「娘々」のせりふが印象に残る。
知盛二度目の出になる。相模五郎と船頭たちの迎えが来て浜辺へ出て行くが、天皇との別れの盃、舞も一切なく、天皇と典侍の局がいないのだから、情の出しようがない。
奥座敷は、御注進が相模五郎はカットで、團十郎の入江丹蔵がここにだけ出る。船もカット。典侍の局と天皇のやり取りも簡単にすむ。
次の岩組は、いつもの知盛の出があって型通り。ところで知盛はなぜ自ら入水するのかといえば、そこには三つの理由がある。
第一、安徳天皇が知盛に向かって、こういう。「昨日まではお前の世話になったが今日からは義経の世話になる」。いわば愛想づかしである。天皇制はこうして生き延びて来た。常に側近に責任を持たせ、いざとなると切り捨てて責任を取らない。この構造が天皇制の本質であることはいうまでもない。
第二、第一場の渡海屋で明らかな様に、知盛は銀平、典侍の局は女房お柳、安徳天皇は娘お安と一つの家族として暮らして来た。いわば仮装家族。その生活が天皇の愛想尽かしから典侍の局の自害によって崩壊するため、銀平はむろん知盛としても死ぬしかない。そこには清盛が女性を男性として安徳天皇にした罪も背後に含まれる。
第三、知盛は地獄の「三悪道」を天皇に見せた罪を義経にせまるが、義経は答えない、知らん顔である。とすればブーメランの如く戦争の相手である平氏に責任が廻って来る。
以上三点は知盛を演じる役者によってニュアンスは微妙に違ってくるが、大筋は変わらない。ところがこの舞台で行くと、第一の理由だけはあるが、典侍の局はそもそもこの場には出ないし、むろん自害もしない。「三悪道」はカットだから第二第三の理由は無くなる。死ぬ理由は希薄になりドラマの骨格が崩れる。見た目だけの景色で人間はいなくなり、芸の見せ場も失われて、劇的な感動がなくなってショウ化する。
知盛が入水すると花道七三の義経が「駅路の鈴云々」のせりふをいう。梅玉が哀愁を濃く聞かせる。この間に今まで吹き替えだった弁慶が團十郎に代わって法螺貝を吹き、そそくさと花道へ入ると暗転。前回通りホリゾントに満天の星が浮かんで、スッポンへ知盛の亡霊がせり上がる。それまでの白地に血染めの衣裳ではなく、水死体という心だろうか銀色の着付けで不動の姿勢で宙乗りになる。しかしそこまでリアルに考えるとついさっき地獄の水底に沈んだ英雄がこんなに早く昇天するのはなぜかと余計なことを考えてしまう。
これで幕間になって二幕目は「木の実」で開く。
初演の時は珍しく北嵯峨の庵室があって、児太郎が若葉の内侍と権太女房小せんの二役早替わり、小金吾を團十郎がやるので萬次郎の尼妙林が小金吾のアナをやったが、今度は北嵯峨の庵室はカット、勢い妙林もカットで小金吾のアナは志のぶの腰元がやる。
團十郎のいがみの権太は十三役中抜群の第一位。この人のニンにピタリである。上手揚幕から出たところ、六代君に木の実を取ってやるところ、荷物をわざと間違えて入る、七三で思わずチラリと本舞台を振り返るところ、いずれもニンのよさが効いて巧いものである。大胡坐のツケ入りの大見得も凄味があっていい。この権太は木の実が第一である。あえていえば後半の引込みに愛嬌が足りない。本当に小せんや善太に辛く当たっている様に見える。
児太郎の小せんは一役になったせいか、余裕があって落ち着いていい。市蔵の猪熊大之進。若葉の内侍は廣松。神妙である。
廻って小金吾討死。権太や弥左衛門と変わるために白塗りでなく砥の粉なのが困るが、これは仕方がない。していることはまことにいい。いつもと立ち廻りの手は同じだが、見違える様な鮮やかさ、面白さ。黒四天全員一心同体一糸乱れず、團十郎を囲んで息を呑む面白さ。久しぶりに歌舞伎の立ち廻りの面白さを堪能した。
小金吾が死ぬと家橘以下の五人組が出る。少し遅れて團十郎が頭を頭巾で覆って弥左衛門で出る。権太、小金吾、弥助と替わらなければならないためなのだろう。芝居はいつもの通り。しかし幕切れはただ首筋に手を充てるだけなのは曲がない。これは振り上げた刀の先が松の枝に当って夜露が落ちる。それで思わず首筋へ手がいくのだろう。それが動きがバラバラでなんのことか分からず、ここらに世話の味がほしいところ。
鮓屋になる。
いきなり團十郎のいがみの権太が出る。そのニンのよさ、いうまでもない。すぐ母親との芝居になり、「おっかさん、(鍵が)開きました」の粋なうちに甘くいう具合、三貫目の金を豆絞りの手拭いに入れて、鮓桶の上からグッ—と手拭いを扱いて桶に落とし、その手拭をパッと首に巻くイキのよさ、暖簾口へのトントンと引っ込むまで。ここらのイキのよさ、際立った江戸前の粋さが、この権太一番の味わいである。
二度目の出から引込みまで、さすがに疲労の影が体に出て体が締まらず、是非今度は権太一役に掘り下げた芝居を見たい。
権太が暖簾口に入らぬ前に、吹替の弥左衛門が下手から出て木戸口に裏向きで立って戸を叩く。女房が気付いて大戸を下ろした店の戸口を開けて入れると、すぐ二重下手障子を開けて團十郎の弥左衛門が出た時には、この間髪を入れぬ早替わりの鮮やかさに客席から嘆声が漏れた。早替わりの早いのは大いに結構。ここは初演よりも際立っているが、早いだけでも困る。ガラッと体も心持ちも変わってその役になり切っていなければ、ただの着せ変え人形になってしまう。
弥左衛門が権太を刺すところは、屏風一枚、障子屋体を使っての大手品を手早く見せて拍手喝采である。手負いになった権太が平舞台でなく、二重に腰掛けて右足を下ろしたところはこの人ではじめて見たが、舞台が締まって絵になる。ここらは早替わりの弾みに出来た怪我の功名、これから團十郎型で流行るだろう。
権太が笛を吹いて落ち入ると替わって下手から弥助で出る。小金吾同様白塗りでないのが困るが、是非もなし。しかし大きさはさすがに辺りを払って幕を切る重みは「成田屋ッ」というところか。
お里は莟玉、クドキがないのは気の毒。母は梅乃。若葉の内侍は廣松。むろん小せんは児太郎が花道の引っ込みを丁寧にやる。男女蔵の梶原。
ここで二度目の幕間。
四の切りは開くともう二重正面に義経が座っていて、ホンモノの忠信の出になる。ただ初演通り「黙して」の下げ緒捌きはカットだから、しどころもない。
狐になってからは、初役以来変に女性的でよくない。例の竹「鳩の子」もカットで性根がなくなるのは、知盛同様である。本文で行けば源九郎狐は初音の鼓の子であると同時に自分も妻子を国に残している。初音の鼓を親とした苦しみを今度は自分が我が子に与えているという矛盾こそがこの狐の悲劇なのだ。
奥庭は前回通り、襖何枚かで朝方、忠信、教経を替わって見せる早替わり。これが終わると暗転になり、十三役のスライドが写る。さらにそれが終わると柿色の裃姿の團十郎が何トンという程の桜の花びらが散り敷く中を歩いて来るフイナーレ。絢爛とも豪華ともいわんかたなき衝撃であった。
『渡辺保の歌舞伎劇評』