勘九郎初役の新三
八月三部制第二部の勘九郎初役の「髪結新三」は、目を瞑ってせりふを聞いていると、その声音、そのせりふ廻しが、祖父十七代目勘三郎、父十八代目にそのまゝ。今に蘇るその親子二代の面影、私はさながら真夏の白日夢を見る思いであった。
ただ似ているだけではない。ただ真似をしているだけでもない。研究の結果おのずからなにかが甦った、というところが尊い。もっとも祖父、父二代の血筋と似ていないところもある。それは芸の線の太さ、輪郭の鮮明さである。上総無宿の入れ墨新三という暗い翳がなく、力強い感覚があるところである。それが二幕目の永代橋から三幕目の深川富吉町の新三内にかけて色濃く出て、芝居の起伏を面白くしている。収穫の第一である。
順を追って行こう。
序幕白子屋の店先は、下手から真直ぐに出たところ、緊張していて固い。もっとリアルに世話に出るべきだろう。それから忠七の髪を撫で付けるところまでもやはりもっと自然に練れた味わいが欲しい。今日はまだ初日が開いて二日目、これから日を追ってよくなるだろう。しかしそれでもすでに触れたキッパリした線の太さ、立役としての恰幅は、新三を明るく見せて得難い。
この場の秀逸は扇雀の白子屋の後家お常。当人何気なくサラサラとしているが、それで本材木町の大店の傾きかかった店の未亡人の風格の見事さ、芝居の行き届いていること、まことにいい。これでこそ白子屋の悲劇が出る。中車の加賀屋藤兵衛、片岡亀蔵の車力の善八、鶴松のお熊、芝のぶの下女お菊、長三郎の丁稚まで周囲も手揃い。
七之助の忠七は、衣紋を抜かぬ梅幸式の青年。柔らかさのうちにキリッとしたところを見せていいが、芸の上ではもう一刷毛の柔らか味があった方が面白くなるだろう。
二幕目永代橋。
勘九郎の新三は、花道を出たところからすでにガラリと手強く人間が変わっている。それはそれで面白いが、芝居が平坦になるのも事実。傘尽くしのせりふは時代に張るべき二ヶ所——「覚えはねぇと白張りの」と「相合傘の五分と五分」——が曖昧である。新三の意地を張るところと自嘲の区別が付き難い。もっとも六代目菊五郎でさえ違っているのだから是非もないが、勘九郎には祖父や父の伝統を継ぐと同時に、正しく新しい新三像を築いて欲しい。
七之助の忠七は、この場の死ぬ覚悟に至る絶望の深さが鮮明になっていい。
ここへ幸四郎の弥太五郎源七が出るが、この人のニンでは線が細く、勘九郎に付き合って舞台は大きくなるが、芝居は面白くない、巳之助の下剃り勝奴が向こうをチラッと見る目付きが鋭くていい。
三幕目深川富吉町新三内と大家の長兵衛の内。
この場の新三が、この狂言第一の出来。細かいところまで行き届いて、それでいてドラマの起伏もハッキリして、近来になくこの幕が面白かった。それは一つに勘九郎の新三がいいためであり、芝居の運びに多少の問題があるにもせよ、前後終始、これからどうなるかと観客に思わせる大胆さ、若さの危ぶなかしさが生きているからである。
前場の源七に金を叩き返すところが、十七代目は金を包んだ紙をパッとつかむイキが素晴らしかったが、勘九郎はこの一瞬はそれ程でもない代わり、この後の金を投げ返すところの意気込みが凄くていい。それに源七を見ての愛想、態度が変わっての嫌味がくどくなくっていい。線が太くてスッキリしているからである。ここらはお祖父さん、おとっあんより上で、これからどうなるかと思わせるところが、芝居を面白くしている。
後半は、長兵衛に最初に入れ墨をいわれてハッとしないで、二度目ではじめて入れ墨を隠すのは間違いだと思うが、今はみんなそうしているのだから是非もないか。しかしこういうところを読み直して祖父や父と違う新三を作って欲しいと思うのは望蜀だろうか。
この場は彌十郎の長兵衛がニンに嵌って、少し芝居の運びが伸びてくどいところもあるがまずは上出来。新三に立って詰め寄るところは少し曖昧だったが、まずはこの幕一番の出来。鶴松のお熊はこの幕だけならばそれらしい。巳之助の勝奴、亀蔵の善八、歌女之丞の長兵衛女房お角、山左衛門の合長屋権兵衛、それに出色なのはいてうの鰹売り。その売り声のイキのよさで、鰹が新鮮に見える。これだけ周囲が揃って近頃にない面白い一幕になった。
大詰深川閻魔堂橋。
ここまで来ると観客も舞台も気が抜けるのが、いつものことだがよくない。勘九郎の新三と幸四郎の源七ともに平凡で気がない。五代目菊五郎がこの場に心血を注いだことを忘れて欲しくない。十七代目の立ち廻りの面白さが、その後の新三の人生の行方を一瞬描いたのを思い出す。
以上今月の歌舞伎座はこの「新三」一番だけが見ものである。
第二部は、この新三の後勘九郎と幸四郎の切り口上で舞踊「紅翫」。紅翫は橋之助だが、その踊りが熊谷からはじまって定九郎、与市兵衛、政岡、夕霧、平作、喜撰などに変わる吹き寄せの難しさ。橋之助にはまだ気の毒である。これに巳之助、児太郎、新悟、虎之介、染五郎、勘太郎が揃ってしどころも見せ場もなく、ただ並んでいるだけという一幕。折角の若手花形役者の無駄遣い。消化不良で胃が痛む。常磐津は兼太夫、文字兵衛ほか。
この第二部を挟んで第一部は巳之助、児太郎で山本周五郎原作、矢田弥八脚色、中村福助監修、大場正昭演出の「ゆうれい貸屋」と幸四郎、染五郎の舞踊「鵜の殿様」。第三部は京極夏彦の新作歌舞伎「狐花」、六時十五分に開いて一回の幕間を挟んで九時二十五分終演という前後三時間余りの長編一本立て。
現代の人気作家京極夏彦の初の歌舞伎の新作、今月一番の期待作であったが、複雑怪奇な物語で理解するのに苦労した。謎解きだから仕方がないが、それでももう少し観客に親切な芝居にしようがあっただろうと思う。今井豊茂演出・補綴。
葛の葉の子別れで有名な信田の森の信田神社の宮司一家惨殺事件。謎めいた狐面の男、萩之介と作事奉行上月監物家の奥女中お葉という男女が実は一人だったという京極ワールド。
しかしこの作品には謎解きは別にして、重要な現代的なテーマが二つある。
一つは目的のために邪魔になるものは容赦なく殺せ——排除しろという独裁権力思想への批判。現代でいえばロシヤのプーチン、イスラエルのネタニヤフ、中国の習近平、北朝鮮の金総書記、アメリカのトランプという覇権主義の独特な思考への批判である。ここでは勘九郎の上月監物がそうである。この考え方が何も生まないことは明らかなのにそれでも大勢がそれに従おうとするのは、社会の構造がそうなっているからであるという批判がここでは痛烈である。重要な指摘であること、いうまでもない。
もう一つの重要な指摘は、世の中の犯罪は全て法で裁かれる訳ではないという指摘。現に目前に自民党の裏金問題は国民の思う様に解決されなかった。しかし明らかに倫理的には正しくない、しかも裁かれない。とすれば法と倫理の間にづれがあり、そのづれによって人々はやり場のない不満、矛盾を抱える。それをどうするのか。むろんそれでも法によって守るしかないだろう。しかしいくらいってもいい尽くせぬ恨みをどうすべきか。
以上二つの批判は、大詰で幸四郎の中禅寺洲齋と勘九郎の上月監物の対決で明らかになる。幸四郎も勘九郎も口跡がいいから、この大詰のせりふ劇はよく書かれてもいるし、迫力十分で共感を呼ぶ。いささか持って回ったくどさはあるが、それでも見もの聞きもの、この新作唯一の収穫であった。ことに普通ならば悪人滅びて善人栄えメデタシメデタシになるところをそうしなかったのは現代的でもあり、出色でもあった。
しかしそこまでが複雑込み入って難解過ぎる。芝居になっていない。見せ場が見せ場にならず役者はただ棒立ちでせりふを喋るばかり。退屈でもあり失敗でもある。
幸四郎と勘九郎はともかくも、七之助の萩之介とお葉も怪し気な雰囲気のみ。米吉の監物の娘雪乃、門之助の雲水、染五郎の的場、亀蔵の辰巳屋とその娘お実祢の虎之介、猿弥の近江屋とその娘お登紀の新悟、笑三郎の雪乃の母とそれぞれ揃っていながらしどころもなく見伊達もなく評するに及ばず。
第一部へ戻ると「ゆうれい貸屋」は、働くのが嫌になった桶職人弥六(巳之助)が女房お兼(新悟)に逃げられ芸者染次の幽霊(児太郎)にあい、勧められるままに幽霊を使って商売をするという奇想天外な話だが、ここに出て来る幽霊はみんなあまり怖くなく、凄味もなく、したがってそれを使って商売をするという奇抜さ、滑稽さも出て来ない。前回十代目三津五郎、福助、勘三郎の時はほどほど面白かったのに、今度はあまりリアリティがなく面白くない。時代のせいだろうか。そういえば第三部の「狐花」では中禅寺洲齋が幽霊は人間の妄想だと主張しているではないか。折角巳之助、児太郎のだしものなのに残念。どうせ汗をかくならばもっと骨のあるものを見たかった。新悟のお兼がちょっと出るだけだがよく、彌十郎の大家はじめ全体に世話物のキメの細かい味が足りない。
「鵜の殿様」は松羽目物仕立てで、鵜と鵜匠の関係を染五郎の大名と幸四郎がやって見せるという舞踊。山川静夫の原案を故人西川右近が踊りにしたもの。染五郎の大名が巧いのと鵜縄に曳かれる動きの鮮やかさが見もの。体がよく効くのと縄の行方が巧く、さながら鵜縄が目に見えるようだった。高麗蔵、宗之助、笑也の腰元。長唄は杵屋和吉、勝七郎ほか。
『渡辺保の歌舞伎劇評』