鷹之資の行く道
鷹之資の個人の会「翔之會」の九回目を見た。
最初が狂言師野村裕基と鷹之資の能楽の囃子方による「二人三番叟」。続いて葛西聖司の解説があって長須与佳の琵琶と尺八。なんでこれがあるのかと思ったが、葛西聖司の説明によれば、去年の「刀剣乱舞」で鷹之資と知り合って今日の舞台になったという。その後四十分の休憩があって鷹之資の舞踊「棒しばり」。錦之助の曽根松兵衛、左近の太郎冠者である。
「二人三番叟」は能楽と歌舞伎の違いがよく分かって面白かった。黒紋付袴の鷹之資がスーッと橋掛かりに現れる。歩いているに違いがないが微動もしないで進んで来る具合に鷹之資の円熟があり感動した。それから本舞台で砕けて、手の舞、足の踏むところを知らず、役者としての体の持ち味が十二分に出る。藤間勘十郎の振りも一見単純に見えて複雑微妙かつ色気があって、それがこの人の持ち味になって、しなやかで変化に富む面白さ、差す手引く手のイキ、あざやかさが際立っている。
一方野村裕基は当然能そのまゝ(野村萬斎監修)、こちらは体の魅力は消してただひたすら型に没頭している。体を見せるのではなく型を演じて見せるという趣きで、そうなると身体の魅力ではなく型の魅力が強く、その面白さが出るのはこれからだろう。三番叟には同じ動きの繰り返しが多いが、それが彼の祖父野村万作の様に、同じでありながら、しかもなに一つとして同じでなく見える様になるまでには長い年月がかかるだろう。
能は型が大事であり、そこに描かれる世界が大事である。一方歌舞伎は舞い手の身体の魅力が大事。そこに能楽と歌舞伎という二つの古典劇の成り立ちの歴史からその歴史の作った本質の違いがある。その違いを目の当たりにする思いであった。それが面白かったのは事実であるが、二人合わせて一つの作品として見れば、その違いが違和感になってしまうことも否定出来ない。
笛は竹市学、小鼓が飯田清一、曽和伊喜夫、森貴史、大鼓亀井広忠。
「棒しばり」は、能舞台ではやはり歌舞伎の舞台と違って体の向き一つにも違和感がある。
鷹之資の次郎冠者は、その口跡、そのせりふ廻し、そのイキのよさ、亡父富十郎に生き写しで思わず胸が熱くなった。
しかしその体の溌剌とした軽さ、動きのす早さは見事だが、それだけでは済まぬものがこの役にはある。
最初の棒の踊りからして、棒の術がいつの間にか踊りになって行くのが必要だし、曽根松兵衛が出掛けた後の踊り三段も難しい。第一段の棒に縛られての踊りも手が動かぬ踊りを踊っていて、その不自由さがいつの間にか自由に見えて、その枷が面白さにならなければならない。そこが動きをなぞるという程度にとどまるのは是非がないか。
第二段の長「東からげの汐衣」は、故人三津五郎が絶品で能の「融」を取ったことがよく分かるほどだったが、鷹之資はまだ無難にこなしたという段階。面白くなるのはこれからの課題だろう。
第三段の太郎冠者との連れ舞は、左近とのコンビがさすがに新鮮で楽しい。このコンビだと太郎冠者に散々裏切られていながら二人が友情を持っているのがよく分かる。今回の収穫の第一。鷹之資の芝居のよさである。
しかしこれを見ていて私は鷹之資のこれからの行く道を思わざるを得なかった。葛西聖司の解説によれば今年彼も既に二十五歳だというではないか。この若さで、この才能でなぜもっとそれにふさわしい活躍の場が与えられないのか。自分の会はむろん大事である。しかしそこでしか活躍出来ないでは困る。それを思って暗澹としたのは私だけだろうか。一観客としてその不満を抑えることが出来なかった。
連れ舞で片手で扇を反対の手に飛ばしてパッと開いた時に、超満員の客席から拍手が来た。この受け方を見れば鷹之資も思わずそっちに惹かれるだろう。しかしあれはけれん、本質ではない。不遇だとつい誘惑に駆られるだろうが、才能のある彼に本質を崩して欲しくない。不遇不満を抑えても正道を歩いて欲しいし、同時に鷹之資が正道を歩く様な企画を立てて欲しいと痛切に思った。
『渡辺保の歌舞伎劇評』