玉手御前の夢
右近の玉手御前がこれまでの玉手御前にない新鮮さであった。
私がそう思ったのは、私が今まで聞いたことがない、玉手の真実の声を聞いた瞬間があったからである。父合邦に刺されて手負いになった玉手がいう。
「恋でないとの言い訳は、身をも離さぬこの盃、継母の心子は知らぬ、片思いという心の誓い」
右近の玉手御前がそういい切った時、このいつも聞き慣れた玉手のせりふがそれまでとは全く違って私には聞こえた。「継母の心」を俊徳丸は知らない。当たり前である。しかし俊徳丸だけではなく誰も知らない。そういい切った時私の前には今まで見たことのない玉手の心の奥底が口を開けた。しかしそれがなんであるかを玉手はいわずに、それは私の「片思い」と玉手は断定した。
右近だと「心の誓い」という一句に強い意気込みがあり、その後に一瞬の間があって、玉手は何もいわずに自分の恋を強く否定して心に封印することを誓った。その否定の「心の誓い」の強さが、かえって「恋」の存在を浮き上がらせたのである。やっぱり玉手の恋はホンモノだったということだろう。
玉手の恋が計略であるか、あるいは本当なのかは議論の別れところである。谷崎潤一郎は計略と聞くと興覚めがするといった。七代目梅幸は私との公開の対談で「私は本当の恋だと思います」といい、「自分はそのつもりで演じています」と語った。計略か本物か。むろん玉手は表面は計略だといい、否定した。しかしそれが本当なのか。右近の玉手も強く本物であることを否定している。しかし否定すればするほど「心の誓い」といえばいう程、そこには否定して心に封印しなければならないものがあるのではないか。右近のせりふ廻しは、そう聞こえる。いや否定出来ないものがあることを暗示している。それは否定するか本物かではなくて、否定することによってかえってそこに立ち上るものを感じさせた。禁じられることによってかえって明らかになった恋。禁じられ否定されることによってのみ成立する恋。「片思い」は一方的な恋をいうと同時に、否定される恋をもいうのではないか。
右近はそういうことを私に想像させた。その時右近の舞台に白日夢の様に、はなやかなしかし儚く封印され、心の奥底に沈んで行く極彩色の大輪の花が消えて行った。それは計略ともホンモノとも違う恋であった。これは恐らく玉手御前の見た人生の夢であった。その儚い夢を描く玉手の人生。こんな人生を生きた玉手を私は見たことがなかった。画期的というゆえんである。
前半に戻ろう。竹「いと深々たる夜の道」で花道へ出たところは、着付けが紫紺に近く、片袖がちぎれて黒の頭巾、裾を引く。梅幸型に近い。歌右衛門の様に逆七三で立ち止まっての思い入れはなく、中ほどに立ち止まって振り返り一つ廻るともうそこが七三で竹「親里も」に嵌る。
「辻でござんす」変わって「戻りましたわいなァ」。最近は誰でも調子を変えない。右近もその通りで「戻りました」といい切っている。総じて門口の間は小さい声で喋っているというそのせりふ廻しの面白さが足りない。
竹「顔と顔とは隔たれど」は、内の合邦夫婦、門口の玉手は七三まで行って戻って頭巾を取る。イトに付く芝居が内外ピッタリという訳にはいかなかったが、大きく動いての大芝居で、ここらでこの「合邦」は義太夫狂言らしく盛り上がる。ここで頭巾を取るのは内へ入って取る梅幸型よりもここで取る歌右衛門型に近い。
内へ入っての母とのやり取りは、クドキを前後二つに分けるところから十分艶やかであり、大芝居なのがいい。右近の瓜実顔が俯くと急に若い女から奥方風に見えて、年増の邪恋に見える変化の具合が不思議なほど鮮明だった。歌舞伎座の菊之助と違って昔風の大芝居——といっても歌右衛門型の、玉手自身、俊徳丸、語り手としてのもう一人の自分という三つの人格を仕分ける仕方噺と違って、あくまで玉手一人の話に徹する梅幸型に近い。「惚れてもろう、キ」の「キ」の言い方もいい。
引込みは歌右衛門型の合邦、母、玉手の三人がイトに付いての大芝居、私は大いに堪能した。
二度目の出になる。丸本と違って二度のクドキになるのは在来の型通り。歌右衛門も梅幸もそうだったが、いかにもそれが華やかで妖艶、艶やかでいい。女形は人形とは違うのだから、この方が歌舞伎らしい。ことに梅幸型の竹「徒裸足」の後の下手裏向きの立身のきまりは艶っぽくていい。ここらは右近渾身の力演で上出来である。竹「怒る目元は薄紅梅」から「嫉妬の乱行」までは型通り、全て楷書でキッチリする迫力は充分である。門口の柱に掴まっての大見得は笄を口に咥える型もあるが、右近は笄を使わない。しかしここで笄を使うのには大事な意味があって、口では俊徳丸を連れてここを立ち退くといっているが、実は密室を作って父に刺されるという玉手の性根があるからである。口に咥えるかどうかは別にしても、笄を使った方がいい。
その後の述懐が面白いのはすでに冒頭に触れた通り。「お疑いは晴れましてござんすか」合邦の「オイヤイ」まで終始整然、大いに聴き所であった。
竹「右に懐剣、左に盃」は今一歩。ここは奇蹟が起きるところだからそれなりの凄味がいる。最後は辞世の和歌も読まずに手を合わせて析のカシラ。右近、渾身の力演であった。
対する猿弥の合邦がいい。父親としての情愛、心持ちが溢れて、芝居がたっぷりしている。前半の「手持ち悪いぞ」辺りは、まだ味わいが薄いが、芝居としては充分。玉手との三人の引込みはすでに触れた通りだが、後半の「オイヤイ」「これが坊主のあろうことかい」は切実に出来ていい。右近の玉手を助ける熱演で、この二人でこの一幕が作品としてよくなった。
菊三呂の母おとく、橋之助の俊徳丸、鶴松の浅香姫、青虎の入平。竹本は前半が道太夫、繁二。後半が谷太夫、慎治で、谷太夫が小音ながら巧く切り抜け、慎治がいい音を聞かせる。
次が「連獅子」。右近の親獅子、眞秀の子獅子という取り合わせがいい。今度はじめて右近が立役と女形を変りたがるのかがよく分かった。この人の芸質なのだ。たとえば歌舞伎座の菊之助も玉手御前の後「勧進帳」の富樫になる。しかしこちらは二つの役を全く別な人間として割り切って演じている。しかし右近の方は変わって見せるというところに自分の命を懸けている。二つの役は別ではなく繋がっているのだ。そこが二人の芸風の違いである。右近の変わって見せるという考え方は遠く六代目に繋がっているのだろう。
眞秀はよくキビキビと体動いて小気味よい。このイキを忘れて欲しくないと思った。
間狂言は、鶴松と橋之助。長唄は杵屋巳三郎、柏要二郎ほか。
「連獅子」が終わると一度幕を引いて出演者全員のカーテン・コール。右近の熱情が場内に満ち溢れていた。
『渡辺保の歌舞伎劇評』