「封印切」と「熊谷陣屋」
鴈治郎と扇雀兄弟の半月替わりの忠兵衛と八右衛門の「封印切」がいい。
私が見たのは一月四日、鴈治郎の忠兵衛と扇雀の八右衛門であったが、鴈治郎はどちらかというと延若型に近い感触で、真正面から八右衛門と手っ張って一歩も譲らない、その激しい向こう意気の強さが面白かった。鴈治郎型は、本来和事師の美しさを持っていて、初代の姿はむろん二代目鴈治郎も坂田藤十郎もそういう感覚が強かったが、今度の鴈治郎はそういう感覚から全く離れて、自由に独自な忠兵衛像を作ったところが新鮮でいい。「紙治」や「曽根崎心中」で散々鴈治郎代々の幻影と闘って来た彼が、その幻影の呪縛から解放されて自由に忠兵衛を自分のものにしたことに乾杯したい。伝統はこうして新しくなって行くのかという感慨ひとしおである。
そうはいってもむろん二場目の奥座敷の濡れ場は、それなりの色気も可笑し味も持っている。しかしそれも在来の二枚目のニュアンスとは一味違うのである。そこが鴈治郎が忠兵衛を自分のものにした証拠である。
ことに封印切りになるところ。むろん成駒屋型だが、突き飛ばされて小判の金属音が微かにする、そこへチンという床の三味線が微かに入って一呼吸あって「アーッ」となる具合には、「運命」の音を聞く思いがした。こういう微妙な芸の艶が出たところが今度の鴈治郎の忠兵衛の特色であった。
対する扇雀の八右衛門は、全てを振り捨てて地芸に徹して勝負に出ている。これもいい。義太夫狂言というよりも現代劇を見ている様な迫力であった。それがまた忠兵衛と対照的に際立っている。
孝太郎の梅川がその間に立って舞台を締めている。魁春初役の井筒屋おえんは、慣れぬ上方狂言の中で苦闘している。東蔵の槌屋治右衛門、桂三の阿波の大尽、寿治郎の肝入り由兵衛。なかではちょっと出るだけだが寿治郎の身に付いた上方の色彩が目に付く。
昼の部は、この前に芝翫の工藤で「対面」と夢枕獏原作の「陰陽師」。
芝翫の工藤は次代の歌舞伎を背負う貫目を見せる。米吉の十郎は柔らか味は充分だが、五郎を振り向くのに直接見るのはよくない。その方角を見ても実は直接見ずに「見ているな」と観客に思わせるのが芸である。そうすれば五郎と十郎の間の空間が出来て光彩が散る。歌舞伎の形容の美学である。
巳之助の五郎は去年の正月の書き換えの「対面」の朝比奈がよかったのに、今度の五郎は意外に荒事の力の丸味、艶がない。表現がナマである。これからの課題だろう。右近の朝比奈は器用にこなしているが、これも丸味が足りず、違和感がある。
中車の鬼王新左衛門、新悟の大磯の虎、宗之助の化粧坂の少将、吉之丞の近江、精四郎の八幡、錦吾、廣太郎の梶原親子。廣太郎に子梶原は気の毒である。
次が「陰陽師」。最初が今井豊茂脚本の「大百足退治」。松緑の藤原秀郷が三上山で大百足を退治して魁春の永薙姫を救い出すという舞踊劇。大百足は「日本振袖始」の八岐大蛇を思わせる大勢の人間が繋がっているがこれが動きにまとまりがない上に坂東亀蔵の大百足の霊魂なるものが百足の体と離れていて正体不明。分り難い。もっと拵え方がありそうだという気がする。大薩摩は杵屋己津二朗、柏要二郎。
次がやはり「陰陽師」の一節で戸部和久脚本の「鉄輪」。「陰陽師」初演の時は、この一節だけが幸四郎の安倍晴明、勘九郎の源博雅の友情を描いて印象に残る一節だったが、今度はこれに壱太郎の徳子姫、笑野の綾子姫という二人の女性が絡んで、複雑な話になったためによく分からず不発。
白鸚の芦屋道満、門之助の藤原兼家。義太夫は蔵太夫、公彦ほか、長唄は杵屋勝四郎、今藤長龍郎ほか。
夜の部の見ものは松緑初役の「熊谷陣屋」である。松緑は一度仁左衛門の代役で熊谷をやったことがあるそうだが、その時私は休演する前の仁左衛門で見ているので、松緑の熊谷は今度がはじめてである。その出来栄えはとても初役とは思えぬものだった。淡々とかつ端正で嫌味なところが微塵もなく、ひたすら型に忠実で正しさを心掛けた出来であり、それがよく格調を作っている。
花道の出から相模とのやり取り、物語の迫力、二度目の出から首実検と順調に進んで幕切れ。花道七三で本舞台を振り返った時に松緑の頬に一筋の涙が流れた様な気がした。そう見えるほど、型を忠実にやることによって型の精神が舞台に表れる不思議さである。ただ唯一今日は調子をやっていてそのためにせりふに悪い癖が出ていてそれのみが残念だった。
それにこの陣屋は周囲がいい。萬壽の相模、雀右衛門の藤の方、芝翫の義経、歌六の弥陀六。この四人が揃って、今日ではいずれも最高の顔触れであり、そのアンサンブルが松緑を盛り立てている。今月この座では「封印切」に次ぐ見ものである。松江の梶原、坂東亀蔵の軍次。
続く「二人椀久」は、かって富十郎と四代目雀右衛門が得意にした初代尾上菊之丞振付の舞踊である。右近の椀久、壱太郎の松山。二人とも速いテンボでよく動いている。しかし富十郎と雀右衛門は速く動きもするが、それがいかにも陶酔を呼ぶ様な速く見えるところに芸の秘密があった。右近、壱太郎がその心境に達するのもそう遠い日ではないだろう。長唄は杵屋己三郎、柏要二郎ほか。
このあとにテレビで当たったという幡大介原作、戸部和久脚本、幸四郎演出、菊之丞演出振付の「大富豪同心」という新作。
隼人が同心八巻卯之吉と、将軍家の御落胤幸千代の二役を替わる。二人はよく似ていて(隼人の二役だから当たり前だが)、そのために騒動が起こる。どっかで聞いたような話だが、肝腎のどうして二人が入れ替わらなければならないのか、その結果二人が何を感じ、どうなったかがよく分からない。人間の動きが少しも立体的に組まれていない——芝居になっていないからである。
私はアチャラカもドタバタ喜劇も大好きだが、それにはそうなるべきシチュエーションがキッチリ書き込まれ、構造化されていないとリアリティを失う。それがアチャラカやドタバタの真髄だと私は思うが、それにはこの台本は曖昧過ぎる。将来の歌舞伎がこうなるならば私には絶望しかない。「封印切」や「熊谷陣屋」の成果とはあまりにも対照的な結果である。
『渡辺保の歌舞伎劇評』