染五郎の光秀
新春早々染五郎が、義太夫狂言のなかでも時代物の主役としての第一歩を踏み出す成績を上げた。「太功記十段目」の武智光秀の初役である。
むろんまだ未完成なところもある。たとえばとかくせりふが義太夫調を外れて現代語調に流れやすい。あるいはまたその動きが大きい割には、ほんの僅かだがせせこましくなる瞬間がある。などなど数え上げれば幾つかの問題点がないわけではない。しかしそれにもかかわらず染五郎の光秀は、時代物の格調を持っている。その点が目覚ましい。この芸の輪郭がなければ、時代物はその格調を失い、格調を失えば歌舞伎は崩壊する。
まず竹藪からの出が大きく、木戸では顔を見せず、下手に歩いて笠を取っての大見得の、痩せ隈を取った顔が、若いにもかかわらず光秀の「顔」に見えるのがいい。役が要求しているニンが出来ている証拠である。続いて竹「見越しの竹をひっそぎ槍」はいささか焦りが見えるし、竹「蛙の音を止めて」と山木戸を入るところは、音を立てまいと鎧の草摺りを持たない。しかし竹槍の穂先を行灯の油で焼くところも行き届いていい。
母の皐月を刺しての驚き、取り敢えず白布で傷の手当てをして、改めて竹「ただ茫然たる」と大きく驚いて尻餅を突くところは、これが歌舞伎の表現の原則なのに最近はとかくリアルになり、ましてや二度驚くのを避ける人が多い中で、形の大きさを強調してしかも空疎にならないところがいい。その衝撃、怒涛の如くで、こういうところで時代物の大きさ、格調が出る。
それから正面に座っての長い芝居も持ち堪えて、ビクともしない盤石の強さ。なんでもない様でいてこういうところに時代物のハラ構えが出る。それが役のスケール、ひいては狂言の格調を作るのである。
操のクドキに対して光秀が、暴君小田春永を殺害するのは「民を安むる英傑の志」という自己を主張するところは、まだドラマの深さが十分出ないが、これは将来の課題だろう。十次郎が帰って来てからの、二重から片足踏み外すところは大きさが出ていい。最近ここも内輪にリアルであるが、染五郎は大きく出て、その大きさが芸の艶になっている。「戦の様子はなんとなんと」と十次郎に語り掛けるところは、一ヶ所世話に砕け過ぎるところがあったが、その他のきまり所はハッキリしている。竹「雨か涙の汐境」の大落しも、両手に持った黒地に金字の軍扇の金字が踊る如く揺れるのが豪快であった。こういうところをバカバカしいと思ったらばダメなのである。
浅草公会堂には廻り舞台がないために、物見の半廻しがいつも巧く行かないが、今度は照明を落として屋体を引き、それに黒幕を被せて松の木の道具を引き出して巧くいった。そこで染五郎の松へ飛んで行く具合、それから物見まで、豪快で立派な出来である。「さらばさらば」の幕切れまで、いい光秀である。
この光秀に対して、残念ながら武智一家は総崩れである。
期待して行った鷹之資の十次郎は、まず出が無造作過ぎてよくない。暖簾の陰でキチンと正面を切ってから暖簾を開かせ、前に向かって出て来るべきである。それからの上手障子屋体に向いての長ぜりふもぎこちなく、体の向き、動きも散漫である。だれも教えてやらないのかと思ったらば涙が出た。竹「孝と恋との想いの海」も心持が十分でない。染五郎のところで触れた様に時代物の格調がここにはないのである。
祝言の間もキッパリした心持ちの表現がなく、僅かに初菊を振り切って二重から平舞台へ降りるところに、この人らしい味が出たのみ。七三で本舞台を振り向くところもただ機械的で感情が出ない。間が一つ速いためである。後半は多少持ち直したが、竹「後ろの方より大音声」などきまりがハッキリしない。
鶴松の操は、母親らしさ、光秀の奥方らしさに欠ける。玉太郎の初菊は型をよく理解していない。たとえばクドキの竹「盃せぬを」で袂を持つのは、ただ持つのではなく盃の形容なのだろう。見ていてなんのために持つのか分からなかった。歌女之丞の皐月は、さすがにしていることに間違いはないが、ただそれだけ。この一家総崩れの中でせめてこの人に踏み止まって欲しかった。莟玉の久吉は前半で引込む時に向こうに思い入れをすべきだろう。後半はいい。左近の佐藤正清は、キビキビしているが、夜の部に初菊をやらせる人に正清は気の毒。
続いて「落人」。橋之助の勘平は、終始機嫌が悪く暗い。勘平が「御家の安否いかぞ」と思っているのは分かるが、それはハラの内、そんなことを突き詰めれば女と駆け落ちなぞ出来ないはず。それはそれ、これはこれだろう。考え過ぎである。
莟玉のおかるは、御所解きの衣裳がよく似合っていいが、中身はとんと現代娘。恋人の顔ばかり見惚れている。そう思っても俯くのが女形の色気であり愛嬌だろう。しかし踊りの振りはよく分かる。清「機も織り候」のあたり、さながら機を織る女の姿目の当たり。それがただの描写でなく踊りになれば面白くなる。
玉太郎が鷺坂伴内。前の幕で初菊をやっている人にこの配役は乱暴だし、観客も戸惑う。歌舞伎では何でもやれるというのは美徳ではないし、その俳優の持つイメージを大事にするのが原則である。伴内をやっているから、なるほど初菊は巧く行かないのだと思う観客が出て来たらば、この人のイメージにも役者としての将来にも傷がつくではないか。
清元は延寿太夫、菊輔ほか。
『渡辺保の歌舞伎劇評』