由良助の沈黙
私が見た由良助——七代目幸四郎、初代吉右衛門、阪東寿三郎から今日まで何十人か。しかし今日見た松緑初役の由良助の様な由良助は見たことがなかった。といっても別に奇抜な演出ではない。型はいつもの通りである。しかしその型通りがほんのちょっと違うのである。
たとえば城明け渡しの幕切れ。本舞台でいつもの通り塩冶家の定紋の入った提灯の紙の部分を取って懐中し花道へ向かって歩き出す。花道付け際で(いつもは七三だが)思わず遠くなって行く館の門を振り返る。チョンと析が入って幕が引かれる。幕外である。間髪を入れず下手から送り三重を弾く三味線弾きが出る。
背中を見せた松緑がややしばらく立ち尽くしている。長い沈黙。次の仕事を忘れたのではないかと思う程の間があって、一体なにをしているのかと思うところへ低く「クウッ」という泣き声が漏れて、松緑の背中が崩れる。客席は息を呑む静寂。満員の歌舞伎座の客席は針一本落ちても聞こえそうな静けさの中で、松緑がヘタヘタと花道に座る。途端に人間の心情が嵐の様に噴き出して、私はその嵐に巻き込まれて感動した。
ここには様式的な演技がない。歌舞伎に独特な演技術——思い入れといったものもない。それどころか何かを伝えようとすることも、描写しようとすることも、表現しようとする意志もない。ただ人間の行動あるのみ。それも由良助という男の沈黙の行動だけが剥き出しになっている。人間の心持——感傷といったものが一切ない。にもかかわらず私たちは静寂のなかになにものとも知れぬ——あえていえば沈黙の言語とでもいうものが舞台に溢れて来るのを感じる。それが人の心を激しく打つのである。私の感動はそこから来る。
そういう由良助を私ははじめて見た。これは活歴でもハラ芸でもない。そういう今までの歌舞伎の範疇を超えたものである。その特色はここだけではなく他にもある。
まず花道の出。判官が切腹した瞬間、バタバタになる。いつもの通り、少しも違わないのに、私には松緑の由良助が只ひたすら必死で走って来た人間に見えた。普通はここで切腹しつつある本舞台の判官を見て、万感の想いを籠めた思い入れがある。しかし松緑はそういうことを一切しない。そうしないから私にはひたすら走って来た人間の姿だけが見える。その一生懸命さだけが心を強く打つ。その一生懸命さによって私には一瞬国許から何百里走って来たかの様に見えた。疾風怒涛。私の目の前を駆け抜けて行く男、全身でただそれたけを想っている男。それが私の心に響いたのである。
あるいはまた、判官に「近う」といわれてそばへ行くと、様子を聞いたかといわれて耳になにか囁く。そしてパッと下がって大きく「委細」といって胸をポンと叩いて平伏する。なにを囁いたのか分からないが、見ている観客には由良助がなにを喋ったかは鮮明であり、大きな感情の波が舞台から客席に溢れて来て、菊之助の判官と松緑の由良助の間に語られた言葉が、二人の男の関係として明らかになる。沈黙——無言の後の心の言葉である。
あるいはまた判官の握った九寸五分を由良助が取るところ。松緑はただひたすら判官が放そうとしない九寸五分を身を屈めて、さながら頬擦りせんばかりに体を近づけて、撫で擦って取る。そこにも無言のコミュニケーションがある。その沈黙とひたすら刀を取るという男の行動だけが浮き彫りになる。
あるいは、焼香のシーン。判官の遺骸を乗せた駕籠に向かって、客席に背中を見せた由良助がややしばらく沈黙する後ろ姿。その背中が微かに動いて泣いているかの如く、しかしそれだけである。そこで思いがけなくも由良助の感情が浮き上がる。
続いて顔世御前が切り髪を見せて「これ見てたも」というのでじっと眺めていてハッと気付いて判官の亡骸の駕籠に入れて、思わず前へ出る顔世御前を抑える、ここにも無駄な動きや思い入れや感傷的な心理描写は一つもない。むろん説明もない。全てを切り捨てて行動だけを描く。それが強く無言の人間の心情を浮かび上がらせる。
そういう由良助を見ていて、はじめて私はそこに現代の歌舞伎の「忠臣蔵」の人間ドラマを見る気がして感動した。二十一世紀の大星由良助である。
菊之助の判官もいい。由良助を見て「待ち兼ねた」と菊之助がいった時、私は二人の信頼関係に胸が熱くなった。この判官あってこそである。上品で、柔らかで、どこかに凛としたところがあっていい判官である。
さらにこの二人のドラマを支えた人々がいる。第一は錦之助の原郷右衛門。こういう存在が目立たずにいて実は判官を、由良助を、ドラマを支えているのだ。近来の郷右衛門である。続いて御簾内ではあるが竹本の葵太夫と宏太郎。この人たちがどれほどこの新しい感覚の「忠臣蔵」を裏から支えたか知れない。長い沈黙を目立たず観客の空気をリードしたのはこの二人の竹本である。最後に時蔵の顔世御前。夜のおかるほどではないが、この人が松緑、菊之助と同じ感覚を持っているのがよかった。この顔世は大序よりも四段目がよく、事件の原因になって夫を追い詰めてしまった悲しみがよく出ている。白装束で毅然として体を起こし、静かに花道を入って行く姿にその悲劇が鮮明だった。
以上四人は殊勲賞。他の役は昔風に歌舞伎らしくベリベリ突っ込む彦三郎の薬師寺次郎左衛門がいい。弥十郎の石堂は薬師寺が挨拶をしているのに無視しているのは愛想がない。性根が違うだろう。莟玉の力弥、松江、男女蔵、亀鶴以下の諸士。片岡亀蔵の斧九太夫は謹んでやっているが、後半はもっと突っ込んでもいいのではないか。
この四段目に対して、在来の型を守って対照的なのは三段目の喧嘩場である。
松緑の由良助の新式に対してこれまでの芸の尺度からいえば、芝翫の師直がいい出来である。
せりふがとかく高音になりがちなのと、見得の時に唸り声を立てるのが耳障りなのを除けば、貫目といい、舞台の大きさといい、芝居の巧さといい、今日の歌舞伎界第一の師直である。対する菊之助の判官もいい。故人七代目梅幸の判官は、鮒侍の件りで、師直の振り廻す中啓を避けて体勢が崩れ、その体勢の崩れがそのまま精神の崩れになって行くプロセスが鮮明だったが、菊之助はより自然で内面的になっている。怒りが内訌していくのだ。しかし芝翫と菊之助の二人でこの喧嘩場は傑出している。
尾上右近の若狭助は大序同様、芸の輪郭がキッカリしない、それに怒りが持続しないのも問題である。伴内は橘太郎、本蔵は橘三郎、茶道は鶴松。
喧嘩場の前に大序の兜改め、続いて三段目の進物場。後に愛之助の早野勘平、萬壽のおかる、坂東亀蔵の鷺坂伴内で清元の舞踊「落人」。
大序はやはり芝翫の師直が第一の出来。変に生々しくせずに立派な立敵で通したのがスケールが大きくていい。ただ若狭助の引込みに正面から来られて、ちょっと迷うのはそれらしくない。はじめからグッと睨んだ方が凄味が出る。もう一つ若狭助に「小身者に捨て知行」のところ、その前に「小身者だ」というのは現代的な説明口調になる。「小身者だぞ、小身者に捨て知行」であるべきだろう。
菊之助の判官は、大序はだれでも小粒になるところであるが、兜を持っての引込みに顔世を見るともなく思い入れをするのは十分に出来た。ただ幕切れの「早えわ」で、最初にそういわれてもとへ戻る。戻ってすぐ立つのは段取りめく。ひと間あってもういいかなと思って立つとまた「早えわ」といわれるから戻って思わず師直の顔を見るのだろう。
右近の若狭助は、三段目よりはここの方がいいが、それでも口惜しさ、怒りを描く描線が爽やかでない。この人は本来判官のニンなのだろう。
扇雀の直義がさすがにこの一座の重みになっている。花道を入る横顔が二代目鴈治郎そっくりだった。
時蔵の顔世御前は、この場は一通り。
次の進物場、橘太郎の鷺坂伴内は悪くはないが、「これはこれはどなたかと存じたれば」の例のせりふがリアルで、聞く者を陶然とさせない。故人吉之丞など三枚目の高音で何度聞いても飽きなかったが。「エヘン、バッサリ」も中間が間違って本蔵に襲いかかろうとするので慌てる件りも、その慌て振りが内輪で見伊達がない。この人としては夜の部六段目の判人源六のほうがいい。橘三郎の加古川本蔵もうす味。この場第一の出来は山左衛門の中間の筆頭。枯れた味で、そのリアルさ、その可笑しさ十分である。
最後は「落人」。松緑の由良助の「四段目」が終わって僅か十分足らずの幕間で幕が開いて、浅黄幕を振り落としてのおかる勘平の合羽姿の二人立ち、清元延寿太夫の「落人も見るかや野辺の」になると、全くの別世界である。ついさっきまでの「四段目」と同じ芝居とはとても思われず、しかしそこがまた歌舞伎の面白さでもある。
愛之助の勘平は、「七段目」の由良助とは違ってこの人のニンとピタリと合って、最初こそ萬壽のおかるに遠慮して余所余所しい気配だったが、段々盛り返して「落人」の勘平らしくなっていい。
萬壽のおかるは、これまたはじめは年上の女房に見えたが、クドキを踊っているうちに立派に愛之助の勘平の恋人に見えた。芸の腕である。亀蔵の鷺坂伴内。清元は延寿太夫、栄吉ほか。
『渡辺保の歌舞伎劇評』